「とにかく平和に」広島原爆の日 脳裏に焼きついた二つの被爆地の惨禍

原爆投下時刻に合わせ、犠牲者に祈りをささげる鶴さん=長崎市出来大工町(左)、旧海軍時代の鶴さん(本人提供)

 焼け野原となった広島、長崎の街を目の当たりにした長崎市の被爆者、鶴昭男さん(95)は「広島原爆の日」の6日、脳裏に焼きついた二つの被爆地の情景を思い起こしながら自宅で黙とうをささげた。当時の惨禍を、現在のロシアによるウクライナ侵攻に重ね「とにかく平和に」と願った。

 77年前、18歳の夏。旧岩国海軍航空隊(山口県)の2等兵曹として、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)での特攻に備え訓練をする日々を送っていた。「死」はすぐ身近にあった。
 8月6日。米軍が広島に原子爆弾を投下。爆心地から30キロ以上離れた岩国市にもすさまじい光が届いた。その後、地響きがあり防空壕(ごう)に避難したが、辺りに変わった様子はなく、しんと静かで不気味さを感じた。
 広島市中心部を訪れたのは15日。上官からの指示でトラックの荷台に乗り込み岩国を出発。どこに向かうのか聞かされていなかったが、道端に横たわる死体を見て爆心地付近に近づいているのだと理解した。
 街は血なまぐさかった。けがをした人、破れた着物姿の人から「乗せてくれ」としきりに声をかけられたが、トラックは公用。敬礼しながら「ごめんなさい」と言い続けた。正午、現在の原爆ドーム近くの旅館で、ラジオから流れる玉音放送を聞いた。
 その日のうちに上官から自宅待機の命令が出て、両親が福岡から疎開していた長崎の親戚宅へ直行。電車を乗り継ぎ2、3日後に道ノ尾駅近くの親戚宅にたどり着き、父と再会できたが、母はいなかった。
 父によると、長崎に原爆が投下された9日、母は路面電車で県庁へ向かっていたという。父は母を探しに爆心地付近に出かけたが、真っ黒に焦げた電車と顔の判別が付かない死体しか見つけられなかった。「あの中にいたのだろう」。父からそう聞かされたが、いつ誰が死んでもおかしくない時代。涙も出なかった。「先に逝ったのか」という思いだけだった。
 それでも、誰か母の消息を知る人はいないかと、18日、中心部で母を探し回った。「世話になった。見つけ出し恩返しをしたい」。しかし既に死体は片付けられており、手掛かりは何も残っていなかった。
 広島、長崎でそれぞれ9日後に爆心地付近に入った鶴さん。長崎で被爆者健康手帳を取得した。毎年8月6日は広島の平和記念式典を中継するテレビの前で手を合わせ、9日は長崎の平和祈念式典や爆心地公園に足を運び、行方知れずの母を思う。
 ロシアのウクライナ侵攻で核使用の脅威が高まる中で迎えた広島原爆の日。鶴さんの脳裏には、岩国に赴任する直前の苦い記憶が浮かぶ。大村海軍航空隊の基地で空襲に遭った際、隣にいた同僚が機銃弾で頭を打ち抜かれ、即死。火葬した際の臭いもよみがえる。
 二つの被爆地で、思い出したくないほどの惨禍を目にした。「自分自身、出撃前に戦争が終わり、たまたま生き残った。戦争は人が死んで当たり前。哀れだ。何が何でもロシアを止め、やめさせなければならない」と語気を強めた。


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