■入来院元彦さん(90)鹿児島県日置市吹上町中原
今年も酷暑の夏を迎え、あの忌まわしい戦争のことを思い出す。満州事変が起きた1931(昭和6)年に生まれた私は、戦争と共に幼少期を過ごした。終戦前の古里・伊作(現日置市吹上)は本土決戦の最前線として、阿蘇兵団の司令部が置かれていた。加えて入来浜が海軍航空隊の演習地となり、多くの兵隊が民泊していた。
県立薩南工業学校(現薩南工業高校)生だった二つ上の兄・正己が、両親に飛行兵(海軍飛行予科練習生)になりたいと訴えたことがあった。母は頑として許さなかった。兄は「母さんは非国民だ」と非難したが、母は険しい顔をしたまま言い返さなかった。
予科練は当時の子どもたちのあこがれ。私は旧制伊集院中学校に通っていて、兄の気持ちに近かった。しかし、今では軍国主義一色の時代にわが子を戦場に送るのを止めた母は、何と強かったのかと誇らしくなる。
45年3月以降、現在の日置市でも米軍機の空襲が始まった。近所の一つ上の先輩たちは校庭の草取りのため春休みも交代で、伊集院まで南薩鉄道で通学していた。あるとき上日置駅(同市日吉町日置)で停車中の蒸気機関車が狙われ、乗っていた学生ら4人が亡くなった。実は私は中学に入るのが1年遅れており、あるいは犠牲になったのが私だった可能性もあったのだ。
戦時中、学校には軍服で軍刀を下げた配属将校がおり、毎日軍事教練をしていた。中学4、5年生は射撃の訓練などもあった。将校は怖かったが、たたかれたりした記憶はない。教師の方が手が出ていた気がする。
そんな厳しい時代でも、子どもたちはむじゃきに遊んでいた。「戦争ごっこ」では、年長で金持ちの子どもが扮(ふん)した“小隊長”が「突撃!」と叫び、私たちは棒きれを持って走り回った。
また、出征中の家族がいる家には目印に旗が立っており、その家の畑の草むしりや農作業の手伝いも子どもの仕事だった。食べる物はカボチャやサツマイモばかりだったが、ひもじい思いをした記憶はあまりない。
長じて立命館大学を卒業し、教師になった。日教組に入って「教え子を再び戦地に送るな」というスローガンのもと、平和教育にも力を注いだ。
「特攻の母」と呼ばれた故・鳥浜トメさんの富屋旅館に、中学生を引率して泊まったことがある。そのときにトメさんが「出撃した特攻兵の使った枕がぬれていたことがある。いろいろ考えて泣いたんでしょうね」としみじみ語ったことを今も心にとどめている。
戦争のみじめさは、戦いの中で生きるか死ぬかを考えなければならないこと。日本は二度と戦争をしてはならない。
私は25年前に車の事故で右目を失明した。両親や3人のきょうだい、妻も鬼籍に入り、1人暮らし。それでも近所の人や教え子が気に掛けてくれ、何とか暮らしている。残る左目でこれからも平和な世界を見続けたい。
(2022年8月10日付紙面掲載)