80年代洋楽にビジネスを学ぶ:ビートルズの著作権をマイケル・ジャクソンが買収? ① 

マイケル・ジャクソン、約113億円の企業買収

「マイケル・ジャクソンがレノン=マッカートニー楽曲の著作権を買収」

ーー このニュースが世界中を駆け巡ったのは、1985年8月10日のことだ。正確に言うと、マイケル・ジャクソンが買収したのは、レノン=マッカートニー楽曲の著作権を管理する音楽出版社、ATVミュージックパブリッシング(現在はソニー・ミュージックパブリッシング)なので、いわゆる企業買収である。

ちなみに、買収額は4750万ドルであった(この前日の為替レート「1ドル=238.54円」で単純計算すると約113億円となる)。それはともかく、当時このニュースを聞いた多くの人は、おそらくこう思ったはずだ。

「著作権って、作品を生み出した本人が所有してるんじゃないの?」

ジョン・レノンとポール・マッカートニーを悩ませた著作権の問題とは

実は、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの2人は、生涯に渡って著作権のことで悩まされ続けてきた。これには、大きく3つの理由がある。

1つめの理由は、2人が生み出した楽曲に、とんでもない経済的価値が付いてしまったことである。彼らの作品が、今なお巨万の富をもたらし続けているのはご承知の通りだから、これには特に説明は要らないだろう。

2つめの理由は、2人がザ・ビートルズ時代に作詞・作曲した楽曲を全て共同名義としたことである。つまり、彼らは共作した楽曲だけでなく、ジョンとポールどちらかが単独で作詞・作曲したとしてもレノン=マッカートニーを名乗っていたのだ(初期の作品にはマッカートニー=レノン名義のものもある)。例えば、「イエスタデイ」は、作詞・作曲にジョン・レノンは全く関与していないのに、レノン=マッカートニー名義となっている。

もちろん、同じバンドで創作活動を行っている2人の間での「共作」と「単独作」の線引きは簡単ではないだろうから、全てを共同名義とした判断も納得できなくはない。だが、2人の関係が悪化してしまったら大事(おおごと)になるというのは容易に想像できるだろう。

実際、ポール・マッカートニーは、1980年にジョン・レノンが亡くなった後に、相続人であるオノ・ヨーコとの間で、楽曲クレジットを巡って揉めたこともある。

深刻だった “著作権の譲渡”

さて、3つめの理由だが、これが最も深刻だった。レノン=マッカートニー楽曲が、作者であるジョンとポールの元を早々に離れてしまったのである。

事の発端は、ザ・ビートルズが米国デビューを果たす直前の1963年。マネジャーのブライアン・エプスタインに連れ出された2人は、手渡された契約書に言われるがままにサインした。

そこには「レノン=マッカートニーの楽曲の著作権をノーザン・ソングスに譲渡する」といった内容が書かれていた。ちなみに、ノーザン・ソングスとは、音楽出版に携わっていたディック・ジェイムズを筆頭株主として、ジョン、ポール、ブライアンが共同出資で立ち上げた著作権管理会社のことである(ジョンとポールの出資比率は各20%)。これによって、ディック・ジェイムズの元にも巨額のお金が流れ込むようになる。

更に1965年、ノーザン・ソングスが節税のため株式公開に踏み切ると、ジョンとポールの出資比率が低下すると共に、誰もがこの会社の株式を購入できるようになった。その結果、2人がどんなに曲を作っても、その報酬が自分たちに入って来にくい構造になってしまった。

いったい何故こんなことになったのか。それは、ディック・ジェイムズの狡猾さのなせる業でもあるし、もちろん著作権や会社制度に対するジョンとポールの無知も大きな敗因だ。それに、敏腕と呼ばれたブライアン・エプスタインも、この件では2人を守ることができなかった。

ところで、ノーザン・ソングス設立時にはまだ殆ど曲を書いていなかったジョージ・ハリスンは、ジョンやポールのように株主にしてもらえず、ただの契約ライターという立場だった。この扱いに不満を感じていた彼は、皮肉を込めて「オンリー・ア・ノーザン・ソング」という曲(アルバム『イエロー・サブマリン』に収録)を書いている。

『80年代洋楽にビジネスを学ぶ:ビートルズの著作権をマイケル・ジャクソンが買収? ②』につづく

※2019年2月18日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 中川肇

アナタにおすすめのコラム 哀愁漂う「ガール・イズ・マイン」誰もが1位を信じて疑わなかった曲

▶ ビートルズのコラム一覧はこちら!

80年代の音楽エンターテインメントにまつわるオリジナルコラムを毎日配信! 誰もが無料で参加できるウェブサイト ▶Re:minder はこちらです!

© Reminder LLC