ウクライナ侵攻などで2022年はいつになく戦争について考える夏となりました。子どもたちが戦争に行かなくてもいいように戦争をどう伝えていくべきか?「こどもとせんそう」と題して考えます。こちらは2022年も賑わった静岡ホビーショーの様子です。8月9日は「ホビーのまち・静岡」の成り立ちに繋がるお話です。
<模型教室参加者>
Q.やってみてどうだった?
「面白かった」
子どもたちが作っているのは静岡県静岡市が出荷額日本一を誇るプラモデルです。小さいころからプラモデルに慣れ親しんでもらおうと、模型メーカーの青島文化教材社が定期的に行っている模型教室です。
静岡市葵区に本社を置く青島文化教材社。「アオシマ」の名で親しまれています。
ショールームの一角に並んでいるのは木で作られた飛行機の模型です。
<青島文化教材社 青嶋大輔社長>
「スタートは、木製の模型からスタートしている。特に飛行機のモデルが最初期のモデルとなる。戦中・戦後の当時から作られていた」
「アオシマ」は静岡市初の民間パイロットとなった青嶋次郎さんが1924年に設立した「青嶋飛行機研究所」がルーツです。木工業が盛んだった静岡市で1932年から木製の模型飛行機の販売を始めました。
勝又悦朗さんと妻の千代子さんは青嶋次郎の娘夫婦です。
<勝又悦朗さん>
「部品を売っていた。袋でパッケージにするのは、ずっと後。この中の竹ひごやヒノキの棒、ゴム、プロペラなど、部品を売っていた」
<勝又千代子さん>
「とにかく新しいこと、珍しいことが大好きな人だった」
2人が小学4年生の時に始まった太平洋戦争。この戦争が模型飛行機のありようを変えました。
模型飛行機が学校の教材として授業に取り入れられたのです。
<勝又悦朗さん>
「学校教材、学校工作の教材材料として模型飛行機を取り上げた。文部省の方で」
<当時の新聞紙面>
「校庭の空を覆わん、沼津第一校にみなぎるたくましい航空熱」
「空だ!男のゆくところ」
当時、世界最強と言われた零戦を開発するなど、航空戦力を重視していた日本軍。模型飛行機は子どもたちに空への憧れを抱かせるのに最適な道具でした。
<勝又悦朗さん>
「来たれ若人よとか、大空へ征けということで、少年飛行兵の募集だとか、いわゆる軍隊・軍国調として、非常に合っていた。大空の夢として、飛行機を飛ばせるというのは」
「アオシマ」は模型飛行機を学校に納めるため大忙しとなり、小学生の千代子さんも手伝いに駆り出されました。
<勝又千代子さん>
「これぐらい(模型セットを)束にして持っていくのはいつもやっていたし、工場の人出が兵隊に取られていないので、小学校の高学年位の時に工場へ入ってノコギリをひくのを手伝った」
模型飛行機の部品を求め、連日、子どもたちが行列を作った「アオシマ」。店先にはポスターが貼られていました。
<勝又千代子さん>
「あの頃はスローガンばかりだった。贅沢は敵だとか、撃ちてし止まんとか」
<勝又悦朗さん>
「私は、征け大空へという(ポスター)を見てやっきりしていた。反感を持っていた。滅多にそういう男はその当時、いなかったが」
<勝又千代子さん>
「あんまりそういう雰囲気ではなかったね、うちは」
<勝又悦朗さん>
「なかったね」
思いに反して戦争の道具として利用された模型飛行機。終戦までに全国で1000万機以上が教材として製造されたといわれています。
<勝又悦朗さん>
「今、何の模型が売れても、その元は模型飛行機を全国の子どもが作ったというのが一番の原点かなと思う」
Q.そういう意味では戦争が商売の追い風になった?
「そんなこと言ってはいけないが、追い風になってしまった」
戦争に翻弄されたアオシマは戦後、「青島文化教材研究所」と名前を変え、飛行機などの模型を再び作り始めました。
<模型教室参加者>
「一番お気に入りなのが、戦車のラジコン」
「ぬいぐるみが好き」
好きなオモチャを選べる。平和とはそんな些細な事を指すのかもしれません。