中森明菜「不思議」アンサンブルの中で光るヴォーカリストとしての魅力  リリース36周年 アーティストとしての成熟を感じさせてくれる名盤「不思議」

中森明菜セルフプロデュースアルバム「不思議」

ここにきて、デビュー40周年となる中森明菜の作品やライブ映像が紹介され、彼女に対する再評価というか、注目度が上がっているという気がする。しかし、そうした中森明菜の数多いアイテムのなかでも、とくに異色とされているのが、この『不思議』というアルバムだ。

『不思議』は中森明菜にとって9枚目のオリジナルアルバムであり、彼女にとっての初のセルフプロデュースアルバムでもある。そして、このアルバムで彼女は最初のコンセプトづくりからサウンドのミックス、さらにはアートワークまで、自分のやりたいことを貫いたという。その結果、当時のアイドルサウンドの基準からは大きく逸脱して見えるきわめて個性的な作品が出来上がった。

このアルバムの評価は人によって大きく分かれていったようだが、聴いてみると確かにそれも無理ないと思える作品だと思う。

レーベルメイトEUROXを全面起用

アルバムタイトルの『不思議』は中森明菜が提案したアルバムコンセプトだという。そして彼女は、アルバム制作にあたってマイク・オールドフィールドの大ヒットアルバム『チューブラー・ベルズ』(1973年)にヒントを得ているとも語っているようだ。『チューブラー・ベルズ』は映画『エクソシスト』のテーマ曲にも使われ世界的に大ヒットした作品で、70年代プログレッシブロックの代表作のひとつでもある。

サウンドづくりもそれまでの中森明菜の作品とは一線を画していた。当時、同じワーナー・パイオニアのレーベルメイトでもあったロックグループ、EUROXを全面的に起用して、本格的なプログレッシブ・エレクトロニクス・サウンドを打ち出していた。

さらに、吉田美奈子、サンディー&ザ・サンセッツといった、当時の日本の音楽シーンにおいてもクオリティの高いカルト的アーティストを起用して、その特異性を際立たせていった。そのためか、このアルバムにホラー的イメージを感じるという人もいるようだ。

印象的だったヴォーカルのスタンス

アルバムを聴いてとくに印象的なのがヴォーカルの扱い方だ。当時(いや、今の方がさらにその傾向が強いかもしれないが)、歌謡曲に置いてはレコードはなにより歌を聴かせるものだった。極端に言えば “歌と伴奏” という扱いだった。

けれど洋楽などでは、ヴォーカルもアンサンブルの一部として捉え、その全体を聴かせるために、歌の定位をあえて低くしている作品も登場していた。日本でも先鋭的なアーティストの中には、あえてヴォーカルの定位を下げる動きもあったが、レコード会社などの “大人” からの強い抵抗を受けるのが常だった。

しかし『不思議』においては、どの曲もヴォーカルがきわめて奥に引っ込んでいて、一回聴いただけでは歌詞が聞き取りにくい。だから、「これは欠陥品ではないか」というクレームも多かったというが、もちろんこれもプロデューサーである中森明菜の意向だった。

単に歌を聴かせるのではなく、アンサンブルの中でヴォーカルになにが出来るか… にチャレンジする。それを楽曲やアレンジだけでなく、音像そのものでも表現しようという意図だった。最初のミックスではもっとヴォーカルがしっかりと出ていたが、中森明菜の「この音は不思議ではない」との声で、ヴォーカルを楽器のひとつとしてアンサンブル全体を構築するという音作りに変えられたという。

一曲ごとに込めたヴォーカルのニュアンスと感情

実は、それは洋楽リスナーの発想でもあるのだと思う。もちろん洋楽リスナーにも歌われている内容=歌詞に重きを置く人は一定数居るだろうと思うけれど、多くのリスナーは、ヴォーカルを意味ではなく音として聴いているのではないかと思う。歌詞の意味はよくわからなくても、サウンドと溶け合った “ヴォーカルのニュアンス” から伝わる魅力を味わう。それもれっきとした音楽の聴き方なのだと思う。

『不思議』はとりあえず歌詞の意味は二の次にして、サウンドアンサンブル全体を味わえるアルバムなのだと思う。デジタルサウンドの中でヴォーカルがどんな表情を伝えられるのか、そこに中森明菜は歌うことのひとつの価値を見出したのではないか。

歌詞は聞き取りにくかったとしても、一曲ごとにヴォーカルのニュアンス、そして伝わってくる感情が違っていることはストレートにわかる。

なぜか、この中森明菜のヴォーカルを聴いていると、アンサンブルの中からじっくりと豊かな味わいを伝えるギターソロのようにも思えてくるのだ。その意味で『不思議』はインストゥルメンタル・アルバムのように聴いて良い作品なのだと感じられる。そして何度か聴いていくうちに、少しずつ歌詞が入って来て、改めてヴォーカルの魅力が感じられていく感覚もこのアルバムの味わいのひとつだと思う。

サウンド、楽曲を聴いて感じる“80年代らしさ”

僕が『不思議』に感じたのは。やはり1980年代らしいアルバムだなということだ。

このアルバムの聴きどころが中森明菜とEUROXのコラボレーションであることは言うまでもない。そのエモーショナルなポップ・プログレッシブ的サウンドがつくりあげているアルバム全体の個性的カラーは、今聴いてもおもしろい。

同時に、アルバムの中で隠し味的に置かれている楽曲も印象的だ。例えば、作詞:SANDII、作曲:久保田真箏、編曲:井上鑑による「ガラスの心」には、耽美性をより強めたニューロマンティックとの、まさに80年代の匂いが感じられるのだ。

さらに作詞・作曲:吉田美奈子、編曲:椎名和夫の「Teen-age blue」や「熾火」(編曲も吉田美奈子)からは、やはり80年代のニューヨークのソウルシーンで一世を風靡したシンセポップの匂いが伝わってくる。

『不思議』のサウンドからは、1980年代にロンドン、そしてニューヨークで異なるニュアンスで発展していったデジタルポップスのテイスト、そしてさらに日本のテクノ、プログレのイメージも感じられる。

こうした同時代感覚が『不思議』の大きな特徴なのではないかと思う。ちなみに「Teen-age blue」の編曲を担当した椎名和夫は、ほぼ同じ時期に中島みゆきの挑戦的アルバム『36.5℃』にも関わっている。そのサウンドを聴き比べてみるのもおもしろいと思う。

こうしたサウンドの流れを見ると、『不思議』はけっして突然変異的作品ではなく、確かにあの時代の空気から生まれた作品だと言えるんじゃないかと思う。ただし、それを “アイドルシーン” の範疇だけで見ると、文字通り “不思議” な作品に見えるかもしれないが、80年代の音楽シーン全体の流れ、そしてインターナショナルな音楽の動きを見ていくと、これはまさにこの時代ならではの作品だという気もする。

中森明菜が見せたアーティストとしての成熟

中森明菜が、このアルバムを構想する際に『チューブラー・ベルズ』にヒントを得たというエピソードはすでに触れたけれど、彼女の視野に洋楽のフィールドがしっかりと入っていたとすれば、こうしたアルバムをつくるのも、うなずけるという気がする。

その意味で、『不思議』は、“なんでも出来るのがアイドルだ” という現在のアイドルの定義の先駆けともいえるかもしれない。けれど、同時にこれはけっして万人に受け入れられる方法ではなく、中森明菜の中のカルト的な資質をさらに強化する作品だったのではないかとも思う。

『不思議』に先立つ1986年6月、松田聖子がアルバム『SUPREME』をリリースした。『SUPREME』も『不思議』と同じようにシングル曲が1曲も無いアルバムだった。しかし、松田聖子はそれまでに自分がつくってきた “アイドル” のイメージを大きく変えることなく、そこに “成熟” のニュアンスを加えることに成功し、このアルバムは彼女の代表作の一枚となった。

これはあくまで結果論なのだとは思うけれど、中森明菜は『不思議』というアルバムでより大胆な変化を見せることでアーティストとしての “成熟” を示そうとしたようにも見える。

だから『不思議』が、熱愛する人も、嫌う人も居るアルバムだというのはうなずける。 多分、中森明菜自身もそれはわかっていただろう。それでも「こういうアルバムをつくりたかったんだろうな」と思うし、それを成し遂げたことは素晴らしいと思う。

カタリベ: 前田祥丈

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