連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第22話

 つまり、言うところは、コチア青年も今まで学校で学んだ事だけでは若殿みたいになるから、ブラジルでの実際の仕事もよく経験を積んで立派な農業者になって貰いたいと言う事であった。そして、君達コチア青年の第一回生は後続のコチア青年のためにも良い手本を示して欲しい、との訓示であった。
 ここのモインニョ・ベーリョは養鶏と花卉の試験が主体で、場長は宮崎県出身の上野成美さんで、私達宮崎県出身組は場長さんの家に挨拶に行き、お茶のごちそうになった。
 また次の日は宮崎県人会の役員さん数人がやって来て、私達をサンパウロの料亭に案内すると言う。場長の許可を得て、当時の金持達の遊ぶ有名な料亭「青柳」に案内された。私など、日本でもこんな経験はないのに、きれいな女性に囲まれて、酒をつがれる雰囲気は悪い気持ちはしないけど、どぎまぎの連続だった。
 そして、いよいよ仲間との別れの日がやって来た。それぞれの配耕先も定り、私と同じ農場で働くのは宮崎県小林市出身の田原洋一君となった。彼は私より二つ年上で、小林の校長先生の息子との話で落着いた物腰の青年であった。出発の日、皆、荷物を整えて待っている。そばにいた田代君が「おーいみんな、見とってみぃ、うちのパトロンは幌馬車で迎えに来るから」と言って皆を笑わせたものだった。
 私達のパトロン森田正之さんはフォードのトラックで迎えにやって来た。ここから四十㌔と割合近い所と言うことであった。モインニョ・ベーリョ試験場を出て、いよいよバルゼン・グランデに向かう。またその途中、バルゼン・グランデの倉庫に立ち寄り、村の顔役さん達に挨拶した。
 モインニョ・ベーリョに着いた時も思っていたブラジルの情景に反して、案外山の起伏の多い、まるで日本の田舎に似ているなぁと思っていたけど。バルゼン・グランデの倉庫を出て、森田さんの車はどんどんと急な坂を登って行くではないか。山を登りつめた所から急に視界が開けて、下方に森田さんの農場が現れた。急な坂を下りて家に着いた。

    森田農場で四年の契約期間を働く

 森田さんは私達のために別棟の部屋を新築されていた。家族は森田正之さん(四十八才)、千代子夫人(四十七才、)幸子(長女・十五才)、恵子(次女・十才)、武男(長男・八才)であった。そしてそのすぐ隣の家は千代子夫人の兄で、田鍋薫さんの家族が住んでいた。そして農場のあちこちにここで働く労働者(カマラーダ)を住まわせていた。

© BRASIL NIPPOU