連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第23話

 この森田農場の経営状態は採卵養鶏とアルカショフラ(朝鮮あざみ)と年二回植えるジャガイモ栽培で、その他、ブドウ酒用のブドウを植えていた。この様に、数本立ての営農でバルゼン・グランデ部落百家族位の農家の中でも規模の大きな農場であった。
 私達は朝六時に起床、コーヒーを飲んですぐに仕事に取りかかる。九時半にアルモッソ(昼食)、二時にコーヒー(休憩)、そして仕事は暗くなるまでやる。カマラーダ達は一応午後五時で止めるけど、私達は陽のある間は働いた。私の主な仕事はきついのがほとんどで、アルカショフラの中を馬でカルピデイラを引かせて除草したり、トラトール(トラクター)で馬鈴薯(じゃがいも)植え付け用の土地の耕起などの準備をしたり、トラトールの動けない急な坂の畠は二頭立ての馬に引かせて耕起した。そして、アルカショフラの株間はエンシャーダ(くわ)でカマラーダに負けずに除草した。
 そして又、ジャガイモの消毒、土寄せ、除草とそのあと、収穫はエンシャーダでカマラーダに請負で掘らせるのであるが、私達はいつもいも拾いから袋詰め、その六〇㌔余りのサッコ(袋)をトラックに積み込むのは頭に乗せて、放り上げるのである。背の低い私には苦しい作業であったけど、負けず嫌いの私はぜったい音を上げた事はなかった。へとへとになっても頑張った。私は十五才位の頃から小さな体で人に負けずに重労働に耐え、頑張ってきたけど、ブラジルでも重労働が待っていた。でも、日本と違うところは食べ物が良かった。毎日、米の飯が食べられた。大きなお皿にフェイジョンと米の飯を山盛りついで腹一杯食べられた。毎食二皿を平らげた。森田さんのおやじさんも「食べにゃあかん。食べない者は仕事も出来ん」と言うので遠慮せず食べた。
 ここでの給料は月に八〇〇クルゼイロス(ミルレース)と一般のカマラーダと余り変わらない程安いものであったが、私は余り使う必要もないので、ほとんど貯金していて、ある程度貯まったら日本の母へ送金していた。一度に三〇〇ドルまで送金できた。アルカショフラの収穫期の八月から十月にかけて、森田さんは自分の車でサンパウロ中央のカンタレイラ市場まで出荷していた。その度に田原君と私と交互に手伝いに連れて行ってくれた。その帰りに食べるレストランでの食事が私の大きな楽しみの一つであった。日本食堂で食べたり、ブラジルのレストランの事もあった。
 森田さんの農場では豚を二十頭位いつも飼っていて、毎年五~六頭は殺して食べていた。私もブタ殺しはうまくなって、随分と殺しの手助けをした。豚の脂は大きな缶に入れて保存し、豚の肉もその中に埋めて置くと長く保存できた。フェイジョンを炊く時の脂はこの豚脂で、マカロン(スパゲッティー)もこの脂でべとべとに炊いた。この頃はこんなに脂濃いものを食べないと体が持たんと言って食べたものであった。魚も適当に食べられた。いわしはさいさい町から買って来てくれたし、正月にはマグロやカツオのさしみもあった。

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