安倍元総理の遺志を完全に無視した岸田人事|山口敬之【WEB連載第14回】 私は今回の人事に「大いなる異変」を見てとる。「優柔不断から唯我独尊へ」。安倍晋三元総理という重石から解放された岸田文雄という政治家が、その本性を剥き出しにした「岸田の岸田による岸田のための政治」の始まりである――。(サムネイルは首相官邸HPより)

「大いなる異変」があった内閣改造

岸田文雄総理が断行した内閣改造と党役員人事。「挙党一致をめざした派閥均衡型」「刷新感に乏しい」「安倍派に一定の配慮」など、大手メディアの評価は概ね60点くらいの可もなく不可もない、「岸田総理らしい総花的人事」という論評が多い。

しかし私は今回の人事に「大いなる異変」を見てとる。「優柔不断から唯我独尊へ」。安倍晋三元総理という重石から解放された岸田文雄という政治家が、その本性を剥き出しにした「岸田の岸田による岸田のための政治」の始まりである。

今回の人事はその陣容は別にして、政治記者的に見れば2つの観点から「大いなる異変」があった。

まずは日程の大幅前倒しだ。本来は内閣改造は9月から10月にかけて行われるものと見られていて、官邸側もそうした噂を否定していなかった。政治家にとってはお盆は地元の有権者と向き合う1年で最も重要な時期だ。

この1年で亡くなった支持者の「新盆参り」は後援会維持のために絶対に外せない必須の行事だし、夏祭りや各地の夏のイベントは有権者の心が緩む絶好のアピールチャンスだ。この時にどの肩書きでどんな名刺を配るかは、政治家にとって非常に重要になってくる。

そういう意味では、9月以降と思われていた内閣改造がお盆前に繰り上がったのは永田町的には大事件だ。

今回人事が大幅に前倒しされたのは、安倍元総理の死後、急落し始めた内閣支持率が長期低落傾向に入るのを防ぐためと見られている。

しかしそのタイミングをお盆直前に持ってきたのは、人目を気にする岸田総理らしからぬ、我欲を優先させた「決断」と言える。

権力とジャーナリズムの緊張感

そして今回の人事にはもうひとつ、メディア的には非常に大きな異変があった。

1990年代の森政権までの歴代内閣は、組閣や内閣改造の際には派閥均衡型の人事を基本としていた。

各派閥の領袖は入閣させたい適齢期の派閥メンバーのリストを総理に渡して、総理は基本的にはその中から誰をどの大臣にするか決めた。

そして陣容を決めると入閣内定者には前日までに閣僚抜擢の事実と登用ポストを告知した。

だから各メディアは、派閥の領袖を取材して派閥からの入閣推薦者を聞き出し、彼らを組閣直前にマークしておけば、組閣前日には新内閣の全容を完全に把握することができた。

この慣例をぶち破ったのが2000年に総理となった小泉純一郎である。

「自民党をぶっ壊す」と宣言して総裁選を勝ち切った「公約」通り、組閣にあたっては派閥からの推薦を拒絶して人材を一本釣りした。そして入閣予定者には登用ポストは伝えず「◯月◯日朝何時に官邸に来るように」とだけ指示した。そしてこうした連絡があったことも、メディアには伝えないよう釘を刺す念の入れようだった。

これによって泡を食ったのが大手メディアだ。派閥を取材しても候補者とおぼしき政治家を取材しても、組閣の陣容が事前に全く把握できなくなってしまったのだ。

人事の陣容を知っているのは、小泉総理と飯島勲総理秘書官だけとなった。そして総理が信頼するごく一部の官房長官や官房副長官が人事の骨格や一部の重要閣僚の名前を把握している、というような事態となった。

組閣の朝にその陣容が打てなくなった各メディアは、官邸取材により注力するようになる。こうして「官邸主導」「派閥の弱体化」がジャーナリズムの世界でも進行していったのである。

小泉政権以降は、マスコミとの馴れ合いを止め、組閣人事を事前に漏らすことはなくなった。

2000年以降、政治メディアの権力におもねる傾向が薄まっていき、対決色を全面に押し出すようになっていったことも、こうした「権力とジャーナリズムの緊張感」と無関係ではない。

大手メディアを敵に回さない「ぬるま湯政治」

ところが今回、岸田総理の人事の進め方は、2000年以前の旧態然としたスタイルに完全に先祖返りした。

派閥からの推薦を受け付け、その中で誰を起用するかを前日までに派閥の領袖と本人に登用ポストを含めて告知した。

今回、新入閣組が9人に上ったのも、「大臣待機組」を多く抱える派閥の要請に従ったためである。

そしてあろうことか、その人事の内容を官邸のメンバーが直接大手メディアに耳打ちしたこともわかっている。

だからこそ今回はほとんど全ての新聞・通信・テレビ局が、組閣の朝までに人事の全容を正確に報道することができた。

スクープも大誤報もない、各社横並びの「ぬるま湯メディア」に逆戻りしたとも言えるが、各社の政治部長やデスクからは安堵の声が漏れている。

こうした経緯を見れば、岸田総理は今後「派閥」と「大手メディア」を敵に回さない、「ぬるま湯政治」「永田町護送船団方式」を指向していくことは明らかである。

そしてそこで犠牲にされたのは、政治とメディアの間に必要不可欠な「緊張感」であり、自民党の因襲悪弊から脱皮していこうという「改革の機運」である。

安倍元総理「高市政調会長は続投させて欲しい」

死の直前、安倍元総理は参院選後の人事について、2人の人物が続投するかを気にしていた。
高市早苗と林芳正である。

安倍元総理は昨年の総裁選後、高市氏を安倍派に戻そうと考えていた。しかし安倍派の幹部や中堅から強い異論が出て断念せざるを得なくなった。

しかし、総裁選での弁舌やその後の政調会長としての毅然とした発信で保守層の期待を一手に引き受けるようになっていた高市氏のことを、安倍元総理は「保守のライジングスター」と呼んで高く評価していた。

そして、無派閥で党内基盤が弱い高市氏の今後を考え、安倍元総理が思いついたのが政調会長室に「チーム高市」を結集することだったのだ。

安倍元総理の強力な後押しで総裁選出馬を果たした高市氏は、選挙戦を通じて多くの保守系議員の心を捉えた。

最初は「安倍さんに指示されたから」と高市陣営に入った安倍派の面々の中にも、高市氏の確固たる保守思想と政策論に惚れ込んだものが少なからずいた。

そして古屋圭司、高鳥秀一、杉田水脈、長尾敬といった安倍派のみならず、経世会の木原稔や小野田紀美など派閥を超えた「真・チーム高市」が塊となっていた。

この中心メンバーの多くを政調会長室に結集させたのである。だから安倍元総理は死の直前まで、岸田総理に対して「高市政調会長は続投させて欲しい」ということを様々な形で伝えていた。

島田次官の「更迭」で、大きな亀裂が

岸田政権発足以降、安倍元総理は岸田政権を支える意向を明確にし、これに対して岸田総理も安倍元総理に一定の配慮をするという関係が続いていた。

これに大きな亀裂が入ったのが今年6月である。岸田総理は、安全保障政策に関しては安倍元総理の懐刀とまで言われた島田和久防衛事務次官を7月1日付けで退任させたのである。

安倍元総理肝煎りの「国家安保戦略」に加え、「防衛計画大綱」「中期防衛力整備計画」という今後の日本の安全保障政策の骨格を規定する防衛3文書の作成に辣腕を振るっていた島田次官の事実上の更迭は、安倍ー岸田関係を一気に冷え込ませた。

「岸田総理の安倍元総理に対する態度は、これまでの『面従腹背』から『全面衝突も辞さず』へと変化したのではないか」

この一件以降、岸田総理への不信感を急速に募らせていた安倍元総理は死の前々日の7月6日の電話でも、私に対して「高市さんを政調会長として続投させるかどうか。これを見れば岸田さんの私に対する真意がはっきり見えるよね」と述べていたのである。

だが、面従腹背の傾向が強まっていた岸田総理に対しても、安倍元総理は一定の配慮を捨てていなかった。

参院選に先立つ6月初旬頃、高市氏から「有志の議員で勉強会を立ち上げたい」と相談された安倍氏は、
「それは素晴らしい案だ。ただ、参院選の前にやると反岸田の動きと勘違いされかねないから、参院選後にしっかりと進めていこう」と応えたという。

安倍元総理は、政策通の高市氏が「高市派」ないし「高市グループ」と言えるような、確固たる議員グループを率いるようになれば、堂々たる総理候補になれると考えていた。逆に言えば「群れない」高市氏の性格が、総理を目指す際にはマイナスになると看破していた。だから高市氏から自主的に議員グループの立ち上げを相談された際には、両手を挙げて賛成したのだ。

しかしその時期を「参院選後」としたのは、ようやく総理になった岸田総理に対する最大限の配慮だった。

「林芳正外相」案に明確に反対した安倍元総理

もうひとつ安倍元総理が気にしていたのは、林芳正外相だった。

岸田政権発足時の組閣人事で、安倍元総理が明確に反対と岸田総理に伝えたのは、林芳正氏の外相抜擢だけだった。それは、日中友好議連という不透明な団体の会長を務めている人物を外務大臣するのは、中国のみならずアメリカや世界各国に対して間違ったメッセージを与える、という総理経験者ならではの知恵だった。

案の定、林外相はアメリカから疑問符をつけられ、新内閣発足後速やかに実施されるはずの日米2+2も、未だに対面形式では実現していない。

岸田政権の外交スタンスを一言で評するなら「完全な従米」である。ウクライナ戦争での対応を見ればわかる通り、何から何までアメリカ・バイデン政権の言うなりである。

もちろん、日本の総理が日米関係を日本外交の基軸に据えるのは当然だ。あとはその度合いの問題である。

安倍元総理が林外相案に反対したのも、アメリカからの情報を吟味した上で、岸田総理のことを思ってのことだった。

ところが岸田総理は、山口県の地元選挙区での安倍家と林家の軋轢など、極めて矮小な問題に着目して、安倍元総理の大所高所からのアドバイスを無視した。

だからこそ死の直前まで、「内閣改造後も林さんを外相として使うのであれば、岸田さんは何か得体の知らないものを背負っているとしか考えられないね」と訝っていたのである。

井川意高・大王製紙前会長の爆弾ツイート

大王製紙創業者一族の3代目で、大王製紙前会長の井川意高氏の林芳正氏を巡るツイートが、外交関係者の間で密かな話題になっている。

林芳正氏が中国に絡め取られいるという話は、昔から長く噂されていた。そしてその根拠の一部となっているのはアメリカからの情報である。

そして組閣の前日、岸信夫前防衛大臣がこの井川氏のつぶやきをリツイートした。

岸氏はこうした案件については極めて慎重なタイプで、軽々しくツイートやリツイートを連発するような人物ではない。そして、米軍のみならずアメリカ政界に広範な人脈を持っていることで知られている。

中国に何らかの経緯で弱みを握られている人物が外務大臣を務めているとしたら、それはとんでもないことである。

統一教会系の団体との関係を噂されたという理由で閣僚を更迭される人がいるのであれば、林外相こそ最初に更迭されるべきである。

最期の願いすら踏み躙った岸田総理

高市早苗政調会長の続投と、林芳正外相の交代。参院選後の人事で安倍元総理が最も期待していたのがこの2つの人事だった。

そしてそのことを一番よく知っていたのが他ならぬ岸田総理だった。ところが、安倍元総理の49日も明けないうちに人事を強行した岸田総理は、高市氏は政調会長から外し、林氏は続投させた。最後まで岸田総理に配慮した安倍元総理の、最期の願いすら踏み躙ったのだ。

日程を大幅に前倒ししたのも、人事のスタイルを旧態然とした「派閥均衡型」「事前告知型」に戻したのも、岸田総理の独断だ。

安倍晋三という重石が取れた岸田文雄は暴走を始めた。そこには「聞く力」「優柔不断」の面影はない。「聞かない力」「唯我独尊」という岸田政治の幕開けである。

著者略歴

山口敬之

© 株式会社飛鳥新社