告知されて号泣・『えっ転移?』子どもも欲しかった・・・こじらせてしまった私の話 両側乳がんになりました159

次の誰かのためにと綴っています。

今回お話を伺ったのは、2014年8月 39歳 AYA世代でり患した大田原りなさん。紆余曲折だった8年たって今の思いを聞きました。

ーまずは、見つけたきっかけを教えてください。

『誕生日だったんです。その日。ふと左胸の横がかゆくて、ぽりぽりとかいたら、おできのようだったんです。そのでっぱりがブラでかゆくて、皮膚科に行こうかなと思ったのですがそこで、母も乳がんだったと思い返して乳腺のクリニックにいくことにしました。』

その後、クリニックで『粘液がん』の告知を受けました。

しかし、そのクリニックでは手術を受けず、転院を決断しました。

先生とコミュニケーションがとれなかった、こじらせてしまった、と話します。

大田原さん『同じ年くらいの先生で人の目を見ない人だったんです。組織診のとき、痛いし、終わったかどうかもわからなくてしばらく放置されてしまったのがそのきっかけでした。ずっとベッドに上半身裸のまま放置されて。慌てて、看護師さんがやってきて、ごめんね、終わったよって。』

大田原さんは25歳で結婚。30歳でお父さまを亡くしました。人生の岐路が何度もあり、立ち上がるまで時間がかかったそうです。ようやく立ち上がって、次の目標に設定したのは『近所のクリニックで医療事務をしながら子育てをしたい』なんと資格も取得しました。

この目標に向かって、40歳目前に不妊治療を始めようと病院に通いだしたところでの乳がん発覚でした。

大田原さん『告知されたとき、不妊治療どうなるの?って、治療をすぐ始めるんですけどダメなんですか?と先生に聞いたら「ああ、」というリアクションでその後の言葉はなし。じゃあ、治療ですけどって・・・。ああ、放置なんだとがっくりしてしまったんです。

手術などの説明で看護師さんと別室にいったときに、『描いていた未来がなくなった』と気づいて大泣き。慌てて、看護師さんがティッシュをくださったんですけど、もうこの先生のところでは無理だろうと。』

さらに周りの友人たちとはまったく違う生活。置いてけぼり感を感じて、真っ暗になったといいます。それでも症例数の多い病院をと聖路加国際病院のブレストセンターにたどり着きました。

しかし、そこでも・・・

『術前検査で肺に影、胃に腫瘍があるとやさしい声で言われたんです。

転移だったの?とその後は、先生の声がまったく言葉が聞こえなくて、立ちあがれなくなってしまったのです。そのまま院内の腫瘍内科に運ばれて先生のカウンセリングを受けました。』

結果は・・・大丈夫だったそうです。一層の検査の結果、胃も良性腫瘍。肺も経過観察となりました。

大田原さん『主治医の先生が淡々と、わかるように話をしてくれる先生が信じられたんです。いろいろ怖すぎるけど、どうにか手術までいけました。

結果は、ステージ1だった。特殊系の「粘液がん」でした。』

発生頻度は乳がん全体のおよそ3%。リンパ節転移が少なく、比較的予後が良好とされていますが(出典:国立がん研究センター)、最初のクリニックでは希少性だけが強調されて恐ろしさが増していたといいます。

主治医に言われた、『病気は人生の一部であって、人生で大切にしてきたことを考えながら治療を考えよう』という言葉が大田原さんに響きました。

子どもを授かりたいと思っていたことから妊孕性の問題も相談できたそう。どんなチャンスがあって、あと何回チャンスがあるのか。なかなか相談しないとわからないものです。

8年前の当時はまだまだ珍しかった、遺伝外来もあり、スムーズに話ができ、情報を知ることが武器になると感じたそうです。

手術後の病理結果はホルモン依存性の乳がん。すぐに不妊治療に踏み切ることは勧められないといわれ、まずは2年間タモキシフェンとリュープリン。そのあとで2年間休薬して、不妊治療はどうだろうと話しが進みました。

『まずは2年治療をやってみよう』主治医と納得して治療が始まりました。

その後の大田原さんの治療はリュープリン2年、タモキシフェン5年で終えました。

主治医の先生は3年前に他界。治療を終える相談はかないませんでした。

患者支援に力を入れていた先生でその影響で大田原さんも患者さんの支援を始めました。

引き継いだ先生は病理を見て、『(主治医同様)5年でみていいと思うよ。今は10年推奨する、とあるけれど、辞めたいなら辞めていい』と言ってくれたといいます。

その時、大田原さんは新たな一歩ではなく、普通に生活をしたい、と強く思ったといいます。

ナチュラルな更年期も来るので、治療はやめたい、と。

大田原さん『そのタイミングで、周りの友達のなかには2度目の乳がん告知を受けた方もいて、怖いでしょ、と言われたんです。でもそのときには恐怖は感じなかったのです。もう患者力があがっていて、自分は自分、人とは違ってそれでいいと感じられたことはよかったと思います。』

乳房再建 アラガンインプラントは入れないつもりだった

大田原さんの患者力が上がり、治療生活支えたものは『患者会』でした。

患者会を探してはいたものの、前々知らない人のところへいくのが怖くて、それこそツボを売られるのではないかとのイメージや高齢の方が多いイメージがあり、なかなか一歩が踏み出せなかった大田原さん。

最初の手術のときに、エキスパンダーまでは入れていて、来月、シリコンのインプラントに入れ替える、というタイミングで『モヤモヤ~な方、集まりませんか?の会』をノックしました。

主催者の方のブログも見て、人柄も見て、そこに行くことを決めました。

『そうしたら、その会に参加していた、実際にシリコンインプラントに入れ替えた人がお胸を見せてくださったのです。とにかくものすごい、みなさんが元気で、熱量で・・・。あっけにとられた1時間半だったのです。想像していたものではなく、もう来月入れ替えたら来ます!といって会場を後にしました。』

今は保険適用ですが、エキスパンダーからのインプラントは自費で100万円の時代が長く、大田原さんは保険適用になりたて。なかなかインプラントで再建された方の情報が見つからなかったので本当に聞いてよかったと話します。

CNJ・キャンサーネットジャパンの乳がん体験者コーディネーター(BEC)も取得。友達が増えて、その中で元気になってきたといいます。その中の一人がステージ4の女性。とても元気に活動されていたそうです。今は亡くなってしまわれましたが、『夫婦2人で暮らしていて、初発の3年は無理だよ、りなちゃん。その3年に元気な人に会いなさい。恐怖心がなくなって世界が広がるよ。』と言葉のバトンを受け取りました。

その人との出会いがきっかけで、そういう中でも前にすすめる力、自分らしさを探すきっかけになったそうです。どの言葉ひとつとってもいい出会いだったと振り返ります。

主治医の思いや出会った患者さんへの思いを次の人へ。

2018年から3年はCNJ(キャンサーネットジャパン)で2022年7月からは日本対がん協会 がんサバイバー・クラブの一員として活動しています。

がん患者さんが患者会や相談窓口にアクセスしやすいような仕組み作りができないか、新しい大田原さんの挑戦が始まっています。

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