「これから死にに行くんだ…」特攻隊員が自宅に下宿 陽気な振る舞い 胸に残る

旧松屋旅館に残されている落書き(写真、左)、当時の特攻隊員の写真を示し、「優しく陽気な人たちだった」と話す久保さん=大村市松原本町

 長崎県大村市の北部に位置する松原地区。太平洋戦争末期、大村海軍航空隊の基地で特攻隊の訓練が行われ、同地区には出撃を控えた隊員たちが滞在していた。当時、自宅に5人の隊員が下宿していたという久保芳子さん(85)=同市松原本町=は「みんな優しく、8歳だった私をかわいがってくれた」と振り返る。
 新編大村市史などによると、太平洋戦争末期に劣勢に立たされた日本は、航空機で敵に体当たり攻撃する特攻作戦を敢行。1945年3月には大村などの教育航空隊に特攻訓練が指示された。大村海軍航空隊で訓練を終えた隊員は「神剣隊」として編成され、鹿児島県の鹿屋に移動。同年4月から5月にかけて6隊が出撃し、計48人が戦死したと記されている。
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 「我ワ征ク決戦ノ南海ヘ!愛機ハ飛ブ敵地ノ上ニ!敵機ハ尾ヲ引キ南海ヘ!」
 自宅近くにある旧松屋旅館2階のガラス戸。戦闘機の絵と共にこんな落書きが残る。真偽や詳細は不明だが、滞在していた隊員が残したものと伝わる。
 久保さんによると、自宅以外にもこうした滞在場所が近所に数軒あり、同旅館もその一つだったとみられる。毎日の食事は決まった家が用意し、隊員が受け取りに行っていた。「白米やおかずも貴重な物ばかり。内緒で私にも分けてくれて、一緒に食べていた」
 久保さんの胸に残る隊員たちの姿は「よく歌い、陽気に振る舞っていた」。空襲の時も平然と歌い、「『命は惜しくない』と思っていたのか、気強く感じていた」。中には20歳に満たない人もいたといい、一人っ子だっただけに兄のような存在だった。
 隊員らは夜中になると、どこかに出かけていた。後で聞いた話では、近くの松原八幡神社に集められ、特攻前の思想教育を受けていたという。「『国のために死ななければならない』という話を聞かされていたのだろう」
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 終戦前のある日、自宅に滞在していた2人の出撃が決まり、父や母、ほかの隊員と見送った。「行ってきます」。あいさつする表情に悲しみはなく、すっきりした顔で覚悟を決めているように見えた。「これから死にに行くんだ」。子ども心にそう感じていた。
 それから間もなく終戦を迎え、2人が生存していることが分かった。ただ、自宅に残っていた隊員の中に広島出身者も。「帰っても原爆で家も家族も残っていないだろう」。そう肩を落とす隊員に、父親は「遠慮せずに戻っておいで」と優しく語りかけていたという。
 終戦後も訪ねてくる元隊員との交流が続いた。その心情を考えると、戦時中のことは話題にしづらかった。ただ、久保さん宛ての手紙に、ある隊員は当時の心境をこうつづっている。「特攻出撃命令が何時発令されるか、(松原では)生死の境の生活をしていた」
 77年前の8月9日、自宅で長崎原爆のきのこ雲を目撃。救援列車で松原に運ばれてくる大勢の被爆者や、やけどで包帯をグルグル巻きにされた状態で亡くなった人など、戦争の悲惨さを目の当たりにした。
 「今思えば、特攻までして戦争を続けないといけなかったのか。戦争のない平和な世界は誰もが願っているはずなのに」。現在ではやりとりも途絶えてしまった元特攻隊員たちの写真を前に、そうつぶやいた。


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