戦争一色の少年時代、国のため喜んで死にたいと本気で思った。「まさにマインドコントロール。洗脳されていた」。米軍機が頻繁に島を来襲。おばあさんが燃えた家の前で気が狂ったように泣き叫んだ〈証言 語り継ぐ戦争〉

田中和夫さんが小学生の頃に掘った戦車壕跡=和泊町瀬名

■田中 和夫さん(90)鹿児島県知名町小米

 戦争一色の少年時代だった。教科書を使った授業はほとんどなく、軍事訓練の一環で行進や整列といった集団活動に明け暮れた。

 太平洋戦争が日に日に激しさを増し、知名村の田皆国民学校6年の時だろうか。防空壕(ごう)や、米軍の上陸を想定し戦車の侵入を食い止める穴(戦車壕)を掘る作業に駆り出されるようになった。

 スコップとくわを担ぎ、毎朝4時に家を出た。陸軍沖永良部島守備隊(約600人)の司令部などがあった和泊町の越山周辺まで、はだしで通った。当時一番のごちそうだった卵焼き入りの弁当がおいしかった。

 戦況が次第に悪化し、米軍機が頻繁に襲来するようになった。田皆集落の高台の木に登り、グラマン機が攻撃するのを眺めたことがあった。目の前の高さに姿を現し、「ヒュー」とすさまじい音を響かせて急降下。「ドッ、ドッ、ドッ、ドッ」と機銃掃射を浴びせ、爆弾を落とした。それを数回繰り返した。

 直後に集落の中心部へ向かった。おばあさんが燃えた家の前で気が狂ったように泣き叫んでいた。「いえーわきゃやーやー、むっがなったんど(私たちの家がなくなった)。えー、いきゃしゅんかや(ああ、どうしよう)」

 ある夜、艦砲射撃の音が聞こえた。閃光(せんこう)が走り、「ズドーン」「ズドーン」と地響きがするような感じだった。グラマンを見た時と違い、本当に怖かった。島の北西沖から撃ち込んだようだ。自分たちがいた田皆集落を越え、海軍特設見張り所(十数人)があった大山の方向へ飛んでいった。

 東方沖からは越山の守備隊付近を目がけ、艦砲射撃があったと聞いた。米軍は島の軍事拠点を把握していた。相当研究していたのだろう。あれほどの大国がちっぽけな沖永良部島を空や海から攻撃してきたのが不思議だった。

 1945年の春ごろ、各家庭で竹やりを置くようになった。米軍が攻めてきたらやっつけるためだ。洞窟にかやをふいただけのわが家にも2、3本あった。今振り返れば本当にばかばかしい。

 大本営発表をずっと聞いてきたので、大人も子どもも日本が負けるとは思っていなかった。島に帰省した先輩が身に着けていた海軍の制服、帽子がとてもかっこよく、憧れていた。

 小学生の頃の夢は海軍大将。「国のために喜んで死にたい」と本気だった。国民のほとんどがそう考えるよう仕向けられていた。まさにマインドコントロール。洗脳されていたのだろう。本当に怖い。

 終戦後、大山の特設見張り所に米軍が進駐してきた。クリスマスに七面鳥の肉やチューインガム、お菓子をもらった。貧しかったのですごくありがたかった。米軍は物資が豊富でぜいたく。日本とは相当な差があるのを実感した。

 米軍統治下に置かれていた奄美群島が53年に日本へ復帰した後、教員になった。生徒に戦争体験を語った記憶はほとんどない。戦時中に学校が焼かれたり、貧しい生活を送ったりしたことをきょうだいが集まった場で振り返っても、年齢が離れた人に話そうとはなぜか思わない。

 自分の子や孫にしてもそう。戦争の悲惨さ、話し合いで解決できなければ力でねじ伏せるといった人間の負の側面を本当なら伝えなければいけないのだろう。ただ世代が違えば分からない、興味がないのではないか。

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