韓国で生まれ戦後日本へ “揺れる船底、恐怖に震え” 何とか佐賀の港にたどり着く

地図を指さしながら当時の様子を語る岩村さん=佐世保市

 太平洋戦争が終わるまで日本統治下にあった韓国。長崎県佐世保市天神町の岩村球枝さん(90)は戦前に韓国で生まれ、戦後初めて日本の地を踏んだ。戦時中は戦争を身近に感じることはなかったが、終戦を機に状況が一変した。帰国するまでの当時の様子を振り返った。
 「私はここで生まれ育ちました。温泉がある、小さな観光地でしたよ」。岩村さんは地図を指さしながら切り出した。そこは現在の釜山市東萊区。父と母、きょうだい4人の6人家族。両親が韓国へ渡った経緯は分からないが、父は現地で建築業、母は自宅で菓子店を営んでいた。
 「日本人が中心となったような地域」だったが近所の韓国人とも親しくしていた。韓国人の友達と縄跳びやおてだまをして遊ぶこともあった。学校で軍服の仕立てや洗濯をすることもあったが、それ以外に「戦争」を感じた記憶はない。食べ物にも困らない、そんな生活-。しかし終戦を迎えると周囲の雰囲気は一変した。
 突然、韓国人が営む店では食料品を売ってもらえなくなった。子ども同士の付き合いもなくなっていった。子どもだった球枝さんには、どうしてなのか理由は分からなかった。
 食べ物に困っていると、父の仕事関係の人たちが夜中にこっそり食料品を届けてくれた。涙ながらに感謝する母の姿は今も脳裏に強く残っている。「優しいお兄さんたちでした」と語る。
 一刻も早く日本へ帰ろうとしたが船は順番待ちで乗るめどが立たず、一家は近所の人たちと漁船で海を渡ることになった。出発したのは1945年10月ごろ。港にいる他の船を見ながら「あの大きい船に乗りたいな」とうらやましく思った。
 岩村さんの乗っていた漁船は台風を避けるため途中、対馬へ避難した。対馬をたった後、連絡船の沈没事故にでくわした。対馬から博多へ向け出発した九州郵船の連絡船「珠丸(たままる)」が旧日本海軍が敷設した機雷に接触したのだ。事故に遭遇し、漁船内はにわかに騒がしくなった。「女と子どもは船底で柱につかまり身を守れ」と言われた。恐怖に震えながら、揺れる船底をおもちゃの人形が転げ回っていた光景を今でも思い出す。漁船はその後、何とか佐賀の港にたどり着いたという。
 悲惨な戦争を経験したはずの世界だが、今も近隣国同士で戦い、平和とは言いがたい状況が続いている。日本の統治下にあった地で過ごした日々。当時は詳しいことを知るよしもなかったが、「あの時、韓国の人々はどんな気持ちで自分たちと接していたのだろうか」。岩村さんは思いを巡らせる。


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