日中戦争に約2年間従軍した男性の日記が、遺族から立命館大国際平和ミュージアム(京都市北区)に寄贈された。中国軍の敗残兵や農民を殺害した「加害の日常」を淡々とした筆致で書き残しており、ミュージアムは「普通の市民だった末端の日本兵が、罪の意識もなく残虐な行為に及んでしまう戦争の恐ろしさを伝えている」としている。
京都市伏見区に司令部があった陸軍第16師団第9連隊に歩兵一等兵や上等兵として所属した小林太郎氏=1972年に61歳で死亡。37年8月に召集されて39年8月に帰国するまで、天津の戦闘や南京占領などに加わった。出征当時は27歳で、京都市左京区に本籍があり、前年に日本大学工学部を卒業していた。
日記は縦23センチ、横19センチで厚さ6センチ。従軍中のメモを帰国後にまとめたとみられ、ほぼ毎日の軍事行動を記録している。剣や銃で殺害された中国兵の写真、トーチカ(防御陣地)のイラストなどもある。
目に付くのは、中国兵や民間人の命を奪う際の記述に感情がこもっていないことだ。「兵は刀にて頭を切る 土民(農民)は銃殺 女は逃す」「5名の連長及将校を捕す これはしらべても何も言はぬので殺す」
一方、自身も生命の危機にひんした激しい戦闘では「壕(ごう)の上からデンガクザシ 『コイツラメ、コラッ、エイッ』 勇ましいシムホニー 皆突き殺した」と、高揚感をうかがわせる表現があった。序文では日中戦争の開戦は「東洋の平和の為 唯一の強国日本は正義の為に立つ時が来た」とあり、政府の主張を信じ込んでいたことが分かる。
各地を転戦させられた末、急性大腸炎で野戦病院に長期入院し、マラリアを患ったことも記している。劣悪な衛生環境で傷病した日本兵が次々と死亡していったと記録する。
日記は小林氏の次女能﨑(のざき)嘉子さん(76)=神戸市=が今年3月、ミュージアムに寄贈した。現在、展示の方法を検討しており、兼清順子学芸員は「従軍兵の日記は数多いが、これほど部隊の行動を細かく記録したものは珍しいのではないか。戦地で何が起きたのかを物語る資料だ」という。
小林氏の日記は昨年2月に「中国戦線、ある日本人兵士の日記 1937年8月~1939年8月 侵略と加害の日常」(新日本出版社刊)として書籍化もされた。