被爆者の心支えた広島大仏 67年ぶりの里帰り

8月15日は終戦の日です。いまから77年前のきょう、太平洋戦争が終結しました。

今回は、かつて原爆投下後の広島の地にあり、人々の心のよりどころとなった”ある大仏”に注目します。「広島大仏」と呼ばれるその大仏は、現在安堵町の極楽寺にあるというのですが、今年、寺の住職や広島県の企業などによって広島大仏を里帰りさせるプロジェクトが発足しました。67年ぶりの里帰り。人々に何を伝えるのでしょうか。

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 8月6日、広島市の原爆ドーム近くの複合施設である法要が行われました。この仏像、通称「広島大仏」は、現在は奈良県安堵町の寺に安置されているものです。今回67年ぶりに広島への里帰りが実現しました。

安堵町の極楽寺。この寺の住職・田中全義(ぜんぎ)さんです。「広島大仏」は、鎌倉時代の仏師・快慶による作品とされていて、もとは東北・山形の寺にあったものです。田中さんの祖父・義邦(ぎほう)さんが、古物商の友人から引き取ったときは「広島からやってきた」ということしか分かりませんでした。しかしその後の田中さんの調べで、この仏像が太平洋戦争終結後の広島市に置かれたのち、半世紀以上所在不明になっていたものであると分かりました。

そのきっかけとなったのは1950年に撮られた1枚の写真。籠に乗った仏像が、パレードのように進みます。田中さんはこの写真で、大仏が広島で果たした使命を知ることとなります。

田中住職

「日本が一番貧しかったというか、戦後ですからね。お金もなくて明日のご飯もないっていうような…。みんな明日を見ようとして、一歩ずつ前進されたときの写真です。」

原爆により焼け野原と化した広島の町。そこからわずか5年後、復興に向けて立ち上がった人々の姿が、写真には映されていました。大仏は爆心地近くで人々の心を支え続けたのです。

田中さんにはこの10年思い描いていたことがあります。それは、広島大仏を広島で公開する「出開帳」です。田中さんは地元の仏教関係者や、広島市の松井一實市長と対談するなど活動を続けてきました。そして今年、出開帳の実現に向けて実行委員会が立ち上がり、クラウドファンディングで支援を募りました。6月には広島大仏が旅立つのを前に、旅の無事を祈る法要が行われました。

翌日、大仏を運び出す作業が行われました。頭、胴体、足の3つにわけて、慎重に運び出していきます。トラックに載せられた広島大仏は、展示会場のある広島市へ出発しました。

広島原爆の日の前日である8月5日。ある場所に向かうという田中さんに同行させてもらいました。大正時代に大仏が広島にやってきたあと、爆心地近くに移される前の足取りを裏付ける資料が出てきたというのです。

田中住職

「原爆ドーム近くの寺にまつられる前、大仏さんがいらっしゃった北広島町というところに今向かっておりまして、非常に楽しみにしています。」

大仏と広島の関係を示す最も古い資料となることが期待されます。車で約1時間20分、北広島町で田中さんを待っていたのは、大仏がこの地にあった当時を知る人たちです。当時は地名から「樽床大仏」と呼ばれていたといいます。今回、新たに見つかった村の名所などが紹介されている本には、大仏の写真や当時安置されていたという家の写真がありました。

河野ムツエさん(87)

「子どもの頃に階段がある高いところにあってね、これ上がるのに走って上がって、(大仏さんを)拝んだり見たりね。」

田中住職

「やっぱり覚えてますか?この大仏さん。」

河野ムツエさん(87)

「はい。」

その後大仏は、原爆犠牲者を弔い 傷ついた人々を励ますため、樽床から広島市内の寺に移されます。

田中住職

「やっぱり(大仏を)覚えている人がまだいらっしゃるんだなって、やっぱり来てよかったなと思いますね。」

8月6日。今年の平和記念式典では1年間で亡くなった原爆死没者、4978人の名前が書き加えられた名簿が慰霊碑に納められました。広島の原爆死没者はあわせて33万3907人になりました。

被爆者(80)

「私も父親が原爆で亡くなっていますので、完全にそれまでの生活と変わりましたから。今思うと、どんなだっただかなと、生きてたらね…と思います。もう戦争はいけないですね。我々みたいな体験をさせたくないですよね、子どもたちに。」

悲惨な戦争を二度と起こさない。鎮魂と核兵器のない世界の実現へ、一人一人が願いと決意を込めます。

一方、昼過ぎ、広島大仏が安置されているおりづるタワーに、ある女性がやってきました。現在は語り部として活動する梶本淑子さん(91)です。梶本さんは1950年のあの大行列に参加していました。

梶本淑子さん(91)

「わあ…懐かしいですねえ…本当に。お久しぶりですね。よくぞお帰りになりましたね、本当に…。」

梶本さんは14歳のとき、爆心地から2.3km離れた飛行機のプロペラ工場で被爆。戦後、大仏殿近くの商店街にあった伯父の洋服店で働いたといいます。集合写真には、当時19歳、着物姿の梶本さんが映っています。

梶本淑子さん(91)

「本当に何もない時代でしたんよ。それなのにこんな着物を着せてもらって、お化粧さしてもらって(大行列に)出るっていうのはすごく嬉しかったですね。お嫁さんになったような気になって、すごく嬉しかった。」

大行列のあと、観光名所としても人気になった広島大仏。梶本さんの心のよりどころでもありました。

梶本淑子さん(91)

「すごく父に似てるんだわ。私を(工場まで)探しに来てくれて、次の年に亡くなったんですけど、なにか落ち着くとか優しくなれるというのは、お父ちゃんに会いたいという気持ちが半分あったんじゃないかなと思ったりします。」

広島大仏を眺める梶本さん。91歳の今も平和を祈り、活動を続けています。

梶本淑子さん(91)

「きょうは8月6日なんです。77年前のこの時間は広島の街は、どんな言葉を使っても表現できないような、まさに地獄の街だったんです。あのような思いはしたくないけど、あの時に何も言えないで無残に無くなっていった人がいっぱいいるので、それを伝えるのは今生きている私たちの務めだと思います。この大仏さんが私をなぐさめてくれたり生きる力をくれたりしたと思います。」

戦争ですべてを失った人たちが前を向き、一歩を踏み出すための復興のシンボルとして親しまれてきた広島大仏。その後半世紀以上行方知れずとなっていましたが、遠く離れた奈良に移されてからも昔と変わらないまなざしで人々を見守り続けました。

田中住職

「このタイミングで出開帳が実ったというのは、何か意味があるんかなと。みんなで肩組んで一つの輪になって復興しようって立ち上がっているその姿を見ると、戦争をやっているところがあるので本当に愚かやなと思います。若い子たちが安心して暮らせる日本になるようにということを祈っていきたいし、発信していきたいと思いますね。」

戦争の歴史、そしてそこから立ち上がった人たちの思いを伝え続ける。67年の時を超えた広島大仏の里帰りは、生きる力と平和の大切さを伝えます。

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※この記事は取材当時の情報です。

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