水田に旧日本軍の秘匿飛行場建設、戦闘機が初めて降りた日に終戦…動員された福井県の91歳男性「忘れられん1日」

戦後米軍が今の福井県越前市から鯖江市にかけてのエリアを撮影した航空写真。中央部、南北に伸びる色の薄いエリア(点線内)が滑走路跡とみられる=1948年3月19日(国土地理院提供)

 太平洋戦争末期、福井県越前市余田町から鯖江市上野田町にかかる水田に、旧日本軍の秘匿飛行場が建設された。本土決戦に備えた突貫工事に、旧制武生中の2年生だった五十嵐一豊さん(91)=鯖江市=は学徒動員された。完成間近の滑走路に試験飛行の戦闘機が初めて降り立ったのが、1945年8月15日。にわかに湧いた歓声をかき消すように、突如訪れた終戦だった。

 五十嵐さんが飛行場建設に駆り出されたのは45年7月ごろ。現場は青々とした苗が元気に育つ田んぼだった。学校で「軍の指令だ」と聞かされ、自宅から鍬(くわ)を手に歩いて向かった。

⇒子ども1285人、戦地への紙面 日中戦争時の顔写真新聞を本社で展示、栗田元知事も

 予科練兵や農民らが周囲の山からトロッコで赤土を運び、田んぼへと流し込む。それを5、6人が石のローラーでならし、五十嵐さんらが石を取り除いて整地する。食糧難のさなか、みんな痩せ細っていたが、楽をすれば上官のげんこつが容赦なく飛んできた。

 鯖江市文化課によると、秘匿飛行場は大戦末期に国内各所で建設された。本土決戦に備え、秘密裏に計画が進められたという。

 「2カ月で完成せよ」と命じられていた突貫工事。終わりが見えてきた8月15日、爆音とともに戦闘機が飛来したのは午前11時ごろだった。「万歳、万歳と、割れるような歓声だった。目の前の飛行機に何とも言えない喜びが湧いた」と五十嵐さんは振り返る。着陸試験を終えて飛び立つ戦闘機を、作業員の多くが興奮冷めやらぬ様子で見送った。

 しかし、高揚もつかの間だった。作業員は突然、軍の号令で滑走路近くの一軒家に集められた。1台のラジオから聞こえてきたのは、敗戦を告げる玉音放送だった。五十嵐さんら学生や兵隊、農民ら集まった200~300人は波を打ったように静まりかえった。

 五十嵐さんは、そのとき現場の中隊長が語った言葉を覚えている。「敗戦ではなく休戦だ。日本は必ず立ち上がる。その時にはお前ら学生よ、しっかり頑張ってくれ」

 現実がうまくのみ込めなかった。翌日も足は自然と飛行場へ向かった。ただ、そこにいたのは「抜け殻になったような」兵隊数人だった。

 1人の兵士も送り出すことはなかった“幻”の飛行場。今、その痕跡は全くない。建設前と同じ青々とした田んぼが広がっているだけだ。「戦争がいかにむなしく、むごたらしいものか。そのことはずっと語り継いでいきたい」。一瞬にして“世界”が変わった8月15日。五十嵐さんには77年たっても「忘れようったって忘れられん1日」として刻まれている。

© 株式会社福井新聞社