『鎌倉殿』比企氏誅殺は追い詰められた北条時政の“クーデター”だった 歴史学者が解説

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第31回「諦めの悪い男」では、北条氏の最大のライバルであった比企能員(佐藤二朗)ら比企一族が滅ぶことが描かれました。

1203年7月20日、鎌倉幕府二代将軍・源頼家は急病となります。しかも、只の病ではなく、かなりの苦しみを伴うものであったようです(『吾妻鏡』)。前回の第30回「全成の確率」の終盤、頼家が病であることを北条義時が告げられるシーンがあったが、これはこの病のことを指すのです。同じ月の23日には、病気平癒のため、祈祷が行われます。占いも行われたのですが、その結果、病の要因は「霊神の祟り」ということにされました。

私などは、前月下旬に頼家の命令により殺された阿野全成の祟りでは?と考えてしまいますが、考え過ぎでしょうか。ちなみに、全成には息子(頼全)がおり、頼全は京都にいたのですが、在京の御家人により、殺害されています(7月16日)。

さて8月中旬になっても、頼家の病は改善せず、鶴岡八幡宮での儀式も欠席する有様でした。そして、8月27日、頼家の命がいよいよ危うくなってきたということで、ある取り決めがなされます。関西の38カ国の地頭職を千幡(後の源実朝。頼家の弟)に、関東の28カ国の地頭職と惣守護職を一幡(頼家の息子)を譲るという取り決めがなされたというのです(『吾妻鏡』)。

この決定に憤慨したのが、『吾妻鏡』によると比企能員だといいます。頼家の子・一幡を産んだのは、能員の娘(若狭局)であり、本来ならば、一幡に全て相続されるものを千幡にも相続されることが、けしからんというのです。能員は激怒し、千幡とその外戚・北条氏を滅ぼそうと決意したといいます。『吾妻鏡』の前掲の取り決めは、北条氏の主導で行われたことが、比企氏の怒りから分かります(吾妻鏡の記述を信じるとすればの話ですが)。

9月2日、比企能員は、自分の娘(若狭局)を通して、病床の将軍・頼家に次のように訴えたといいます。「北条氏を追討するべきです。家督の他に、地頭職を分けることは、2つの権威が並び立つことになります。後に覇権争いになることは、疑う余地がありません。北条の一族が存続すれば、後になり、権威を奪われてしまうでしょう」と。驚いた頼家は、能員を枕元に呼び、北条氏追討の許可を与えるのでした。

『吾妻鏡』では、2人のこの密議を、北条政子が障子の陰から立ち聞きし、急ぎ、北条氏追討の件を、父・北条時政に伝えることになるのです。政子から報せを受けた時政は、比企を討つ策略をめぐらせます。それは「仏像の供養があるので、是非、邸にお越しください。その後で色々なことを話しましょう」と比企能員を誘い出すものでした。

使者からその報せをもたらされた能員は、危ないからやめておけと、周りが止めるのも聞かず、丸腰で北条邸を訪問。案の定、殺されてしまうのでした。以上は『吾妻鏡』が記すところの比企誅殺の流れです。しかし、分割相続の話や政子の立ち聞き、能員の丸腰訪問などは、歴史家からも「本当か?」という疑義が寄せられています。

そして『吾妻鏡』以外の史料には、比企氏誅殺の流れを次のように説明しています。「頼家は一幡に源家の全てを相続させようとした。そうすることにより、比企能員が実権を握ろうとしていることを聞いた北条時政が、千幡こそ源家を継ぐべきものと思い、能員を呼び出し刺殺してしまった」(鎌倉時代初期の僧侶・慈円の著書『愚管抄』)と。

『吾妻鏡』には、比企氏の側が北条氏を追討しようとしたと書いてあったが、実は北条氏の側が比企氏を滅そうとしたと書かれていたのである。一幡が鎌倉殿になれば、比企能員は外戚として権力を持つことができるのだから、兵を挙げる必要などない。むしろ、追い詰められていたのは、北条氏(時政)の方であり、時政の行為は、乾坤一擲のクーデターと呼ぶことも可能ではないか。いずれにしても、北条氏と比企氏の間で、激しい権力闘争があったことは確かでしょう。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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