人に従い戦地で散った軍馬 宮城・石巻市の私設資料館で特別展

兵器といえば、銃や大砲などを思い浮かべる人が多いかと思いますが、太平洋戦争では馬や犬といった動物も兵器として扱われ、人知れず戦地に散っていきました。

動物たちが戦争でどんな役割を果たしたのかを知るために訪れたのは、宮城県石巻市の私設資料館です。

旧女川高校の元校長だった佐々木慶一郎さん(75)。

佐々木さんは、太平洋戦争を中心とした資料を個人で収集し、無料で公開しています。

佐々木慶一郎さん「18歳から75歳までの57年間集めたものが4000点になりまして、このような形になりました。」

毎年、終戦の日前後のこの時期には、特別展を開いています。

今年のテーマは、旧日本軍とともに戦った軍馬です。

佐々木慶一郎さん「支那事変から終戦まで、全国から50万頭の馬が(戦地へ)行ったわけですから、軍隊には(常に)相当な数の馬がいたんです。あんまり活動は知られていないでしょうけれども、戦場では大いに活躍しました」

旧日本軍とともに戦ったのは、軍馬だけではありません。

弾丸の飛び交う最前線への弾薬の輸送には犬、情報をやり取りするための通信手段としては鳩も使われました。

活兵器・生きた兵器とも呼ばれた動物たちの中でも重宝されたのが、やはり軍馬でした。

戦うときに兵士が乗った「乗馬」大きな荷物を運ぶ「駄馬)」そして、大砲などを運ぶ「輓馬」と、様々な役割がありました。

佐々木慶一郎さん「馬は道が無いところでも、急な斜面でも、トラックが行けないようなぬかるみでも、川の中でも、荷物を背にして歩くことができた。これは大きな生きている兵器だと思います」

当時、田畑を耕すのに欠かせなかった馬。

家計を支え、家族の一員でもあった馬ですが、佐々木さんによると、国に買い上げられたり「青紙」で徴発されたりして、戦地へ送られたと言います。

軍馬が、特に大きな役割を果たしたのが、当時、イギリス領だったインドで、旧日本軍とイギリス軍が戦ったインパール作戦です。

戦場は、ジャングルと2000m級の山々が連なる厳しい土地。

旧日本軍の死者は3万人以上ともいわれる悲惨な戦いとなりました。

そうした戦いの中でも、軍馬は負傷した兵士や重い荷物を背負って悪路を進んだといいます。

佐々木慶一郎さん「馬も一緒に行動しているわけですから、兵隊さんにとっては、もの言わない戦友。ですから愛馬が死ぬと戦友を亡くしたように悲しんだという風にいわれていますね」

戦地に送られた馬は50万頭以上といわれいて、ほぼ全てが敵の攻撃を受けたり、飢えて死んだりして、二度と祖国へ帰ることはありませんでした。

そんな軍馬たちを弔うため、各地の集落の入り口には、軍馬神碑や馬頭観音といった石碑が建てられました。

佐々木慶一郎さん「馬頭観音とし、地域に残されていますが、その(建てられた)意味も分からなくなって、夏草が生い茂る中に、今その碑が倒れたりして、顧みられることがなくなってますが、そういう軍馬の歴史があったんだということを、この終戦の日に思い出していただけばいいのかなと思います」

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