「どんな方法でもいい 無事でいることを知らせて」特定失踪者家族が北朝鮮に向けてラジオ収録

北朝鮮に拉致された可能性を排除できないとして警察などが調べている「特定失踪者」と呼ばれる人たち。その数は全国で900人近くに上り、広島県内にも行方がわからない家族を思い続ける人たちがいます。

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14日、広島では家族が、北朝鮮向けにラジオで流すメッセージの公開収録にのぞみました。

北朝鮮向けのラジオの公開収録は、政府の拉致問題対策本部と市民団体特定失踪者問題調査会が主催しました。

警察が、行方が分からなくなった状況などから北朝鮮に拉致された可能性を排除できないとしている「特定失踪者」の数は現在871人。その帰りを家族たちは待ち続けています。

収録に参加した林健さんもその1人です。

おい・和田佑介さんは、20年前の5月に1人暮らしをしていた広島市佐伯区のアパートから車と一緒に突然姿を消しました。

その後、神石高原町の帝釈峡や実家がある島根県内、遠くは三重県などで給油したという記録が残っていましたが、それが本人かどうかも含めそれからの足取りはつかめていません。

林健さん
「和田佑介くん。お母さんの弟の林健だよ。あなたをずっと待っとってね、母さんはね、3年前にとうとう亡くなっちゃった」

母 和田執子さん(2014年)
「ゆうくん、お母さんです」

佑介さんの母親である和田執子さんは、ラジオ収録のほか、県に署名を提出して情報提供の呼びかけを依頼するなどし、佑介さんの情報を求め続けましたが、再会はかなわないまま、3年前に亡くなりました。

林さんは、そんな執子さんの遺志を受け継ぎ、今回の収録にのぞんだといいます。

林さん
「あなたの部屋はそのままにしてあるからね、待ってるよ、どうか、帰っておいで」

そしてもう1人、収録に参加した佐々木正治さんです。1972年、4歳年上の兄・薫さんの行方が分からなくなりました。

佐々木正治さん
「兄、佐々木薫へ。あんちゃん。この言葉を使わなくなって、もう50年になります。元気でいますか?」

薫さんは、22歳だった1972年11月、知り合いの女性に「急に京都に行かなければならなくなった」と電話をかけました。その何日か後、再び知人女性に「京都から帰れなくなった」と電話をかけた後に行方不明となりました。

そして1991年正月、差出人が薫さんになっている年賀状が兵庫県在住の叔父の家に届きますが、記載されていた住所には別人が住んでいました。

北朝鮮の拉致の可能性を疑うようになってから、ラジオ収録の話を何度か耳にしましたがが参加の勇気が出ませんでした。

佐々木正治さん
「なかなか一歩が出にくいんですよね。連れ去られる瞬間を見たとか、いろんな情報に乏しいので」

しかし、今回、兄が失踪した広島で収録されることを知り、参加を決めたといいます。

佐々木正治さん
「どんな方法でもいい。無事でいることを知らせてほしい。待っています。」

どうか元気に帰ってきてほしいとメッセージを収録した家族たち。自分たちもいつまでこの活動を続けられるか分からないと不安を抱えながら帰りを待ち続けています。

― 家族にとっては、ずっと時がとまったまま…。政府に対して、岸田総理に対して北朝鮮の問題を前に進めてほしいとただただ願っているとのことです。

こうしたラジオの公開収録の会は2015年に東京で始まり、全国各地で年に数回開催されていますが、広島での開催は今回が初めてだということです。

公開収録が行われた会場には、市民などおよそ130人が集まりうなずきながら話を聞く人や涙をぬぐいながら話を聞く人の姿も見られました。

特定失踪者の家族のラジオ収録を聞いて「自分の家族が同じ目にあったらと想像するだけで胸が痛い」と話している人もいました。

収録されたラジオは後日編集をされて1か月以内をめどに拉致問題対策本部の
「ふるさとの風」と特定失踪者問題調査会の「しおかぜ」のそれぞれ短波放送で実際に北朝鮮に向けて放送されるということです。

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