熊本市の立田山地下壕に特攻司令部 近くに住んでいた穴見さん証言「将校が家に寝泊まり」

入り口が露出していた2基目の地下壕。側面に坑木設置跡が確認された(くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク提供)

 太平洋戦争末期、熊本市北区龍田の立田山山腹に、熊本県内の飛行場を束ねる陸軍航空隊「第三十戦闘飛行集団」の司令本部が置かれた地下壕[ごう]があった。全容は不明だが、昨年10月に地下壕が見つかり、今年4月の調査で、軍事利用の痕跡が判明。当時、近くに住んでいた穴見和喜さん(74)=北区=は「将校が実家に寝泊まりしていたと、母親から聞いた」と証言する。

 「熊本の歴史」(弦書房、2007年)によると、東京に司令本部を置いていた同集団は、熊本、宮崎、鹿児島3県の防空任務に当たるため福岡の「第六航空軍」の指揮下に入り、1945年7月に熊本に進出。地下壕を調査した「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」によると、司令本部は特攻の出撃命令を出す重要拠点だったという。司令部参謀だった男性が寄稿した82年の新聞記事にも、花岡山段丘と立田山の地下に、通信網を備えた戦闘指揮所を設置したと記されている。

 穴見さんは小学3~4年の頃、母親から自宅が将校の宿泊所だったと聞いた。複数の将校が出入りし、風呂も貸していたという。当時、母親は独身で祖母と2人暮らし。穴見さんは「実家は壕から一番近く、夫がいなかったので使いやすかったのだろう」と推測する。部屋の障子には刀傷があり、「将校が敗戦の知らせを聞いて、酒に酔って抜刀した跡」という。

くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワークに地下壕の情報を提供した乃美勝彦さん。壕の入り口(中央奥)は崩れてほぼ埋まっている=熊本市北区

 地下壕は自宅から徒歩5分ほどで、子どもの頃の遊び場だった。穴見さんは「地元では誰もが壕の存在を知っていたが、まさか陸軍の司令本部だったとは」と驚く。天井は当時の背丈よりずっと高く、奥の横穴から別の壕へつながっていた。「よく探検しに行っては親に叱られた」と振り返る。

 同ネットワークの4月の現地調査で、2基の地下壕が発見された。1基は入り口がほぼ埋まっていたが、もう1基は入り口が露出。壕内を小型カメラで調べた結果、通路は横3・5メートル、高さ2・5メートルと推定された。通常の防空壕と違って四角に掘られ、壁に坑木が打ち込まれた跡があったことが、軍事利用を裏付ける証拠という。

 将校が暮らしたという穴見さんの実家は、母親が亡くなった約10年前に取り壊した。ただ、終戦後の物資不足の時期に地下壕の内部から持ち帰ったという約4メートルの木材は、今も保管しているという。穴見さんは「母は、終戦直後に壕の外で毎日何かが燃やされていたと言っていた。壕内部の通信機を焼却していたのかもしれない」と想像する。

 「熊本の歴史」によると、同集団は8月13日に大本営から沖縄への特攻命令を受けたが、14日の会議中にポツダム宣言受諾を知り、作戦は実行されずに終わったという。

 同ネットワークの髙谷和生代表(67)=玉名市=は「終戦秘話を語る重要な戦争遺跡だが、通信設備などの地下壕の全容は不明。証言を集めたいが、当時を知る人の多くが亡くなっており悔やまれる。壕内部の詳細や関連施設を調べたい」としている。(深川杏樹)

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