【陸上物語FILE18 柴田博之】 9秒台男!桐生選手が恩師に与えた夢とは?

アスリートの生き様を尋ねて全国を回る「陸上物語」。 
18人目のゲストは洛南高校の教員であり同校の陸上部監督である柴田博之さんです。東京オリンピックに出場した桐生祥秀選手や丸尾知司選手をはじめ、多くのアスリートを世に輩出した「名将」でもあります。柴田さん自身も、現役時代は日本選手権優勝、ソウルオリンピック出場を果たしたトップアスリートです。インタビューの中で一貫していたのが「可能性を信じること」。
「無駄な練習なんて1つもない」、「この子はもう伸びない、ではない」、「目の前の練習や課題をどうするかは、誰でもない〝自分自身〟」。
成長し続けたいと思う気持ちはアスリートだけではなく、私たち自身にも通じる想い。どんな人にも響くインタビュー、ぜひご覧ください!

柴田監督の素顔に迫る

ーー先生、この番組が始まってから3ヶ月が経ちましたが、今までで1番緊張しております。

そりゃ、緊張してもらわな困ります(笑)。

ーー生徒さんや陸上部が活躍される度に、いろいろなところからインタビューに来られると思いますが、現役時代のお話って最近されましたか?

今は指導者ですから、指導した選手についての話は多いけれど。私の現役時代にさかのぼった話はもうないですね。

ーーこの番組の特性上、そういったことをお聞きするんですけれど…聞かせていただけますか?

若干の「脚色」は入ってくるとは思いますが、よろしくお願いします(笑)。

ーーありがとうございます。洛南高校の陸上部は強豪校ですし、柴田先生は一際、良い意味で「怖い」イメージがあったんですが、OBの皆さんから聞くと、面白いことが好きでユーモア溢れる先生だとお聞きしました。

それは心外だね(笑)。別に面白いことをやろうと思っているわけではないし、恐く振る舞おうと思っているわけでもない。ごく自然に学校の先生としてやっているだけです。卒業生とはフレンドリーに接しますが、現役の生徒とは一定の距離感を持っておかないと。馴れ合いではいけません。そういったところが「怖い」と思われるのかもしれないけれど、本当は怖くないですよ(笑)。

ーー今日練習を拝見しましたが、本当に部員の皆さんが良い表情で練習をされていました。「キツイ!ケツ割れる!」とか、冗談も交えながら切磋琢磨している様子を拝見して良い光景だなと思いました。

しんどい練習を見るのが1番好きなんですよ(笑)。あぁやって倒れているのを見ると「今日もビールが美味しいな」というね(笑)。そういう気持ちになれるんで。今日みたいな練習は指導者としては「やったな!」という気になります。

走高跳で「抜き30cm」

ーーそういう1年1年を何十年積み重ねてこられた、指導者としての柴田監督の陸上人生は後ほどお伺いするとして…現役時代のお話ということで。柴田先生が陸上を始められたのはいつですか?

城陽中学校(京都)出身なんですが、最初は陸上部に入る気はなかったんです。少年野球をずっとやっていたので、野球部に入ろうと思っていました。4番ファーストだったんです。「当たれば大きい、小技は利かない」、そんな4番バッターでした。走るのは得意だったので野球部に入ろうと思っていたけれど、仲の良い友達に「陸上やらへん?」って言われて。陸上って面白そうじゃないけどな、と思っていました。今の多くの中学生もそうだと思うけれど「よし!陸上をやるぞ!」って感じで入ったわけではありませんでした。野球部も仮入部で行ったけれど、陸上部を見に行ったら、先輩が優しくてね。「おいでよ!おいでよ!」って言ってくれて。「ここでやっても良いかな」と思って、軽い気持ちで陸上部に入りました

ーー最初にやった種目はなんだったんですか?

100mですね。長距離は苦手でダメだったけれど、走るのはまぁまぁ得意でした。100mを1回やってみろと言われ、最初に出した記録が14秒6ぐらいかな。当時においても、そんなに速い記録ではありませんでした。

ーー中学1年生の時ですよね。中学校時代の専門って「走高跳」ですよね?すごい記録をお持ちだったとか。

当時、「三種競技」というのがありました。三種競技AとBがあって、僕は「三種競技A」をやっていました。100mと走高跳、そして砲丸投げの三種競技です。当時の顧問の先生から「近畿大会に出たいか?」と聞かれ、「100mじゃ無理かもしれないから、三種競技をやったらどう?」と言われたんです。目立つことが好きでしたから、当時は、「三種競技なんてどこでやっているか分からない、しかも誰が勝ったのかもよく分からないじゃないか」と思い、「僕、そんな種目、嫌です。100mで格好良く走りたいんです!」と言っていました(笑)。ですが、「三種競技だったら近畿大会にいけるかもしれないぞ?」と乗せられて、三種競技を始めました。でも、最初は走高跳が跳べなくて。どうやって跳んだら良いのかも教えてもらえなくて、最初は「はさみ跳び」をやっていました。当時は「ベリーロール」か「はさみ跳び」の2択で…ベリーロールは格好悪いから嫌だなと(笑)。「背面跳び」も当然ありましたが。それからちょっとずつ…まさに自己流で走高跳を始めました。最初は1m50cmがなかなか跳べませんでしたね。

ーー先生、その時の身長って?

166cmくらいです。

ーーどちらかというと小柄なほう?

小さいです。

ーー最初に跳んだのが1m50cm?

1m50cmぐらいを跳びました。試合が(実践の)練習みたいな感覚でしたね。
1番低い高さから丁寧に3cmずつ上げていって…当時「パス」というのを知らなかったので。そのうち、1m70cm台が跳べるようになって。それが何かの拍子に1m80cmほど跳べるようになって。「自分の身長(1m66cm)より、こんなに高いバーを跳べるんだ!」という感覚を覚えました。そして最後、近畿大会で1m 97cm跳びました。当時の近畿中学記録で、その年の中学ランキング(走高跳)1位でしたね。

ーー淡々とお話になっていますが、すごいことですよね(笑)。まず、身長が170cmなかった頃に…。

1m97cmを跳びました。自分の身長の「抜き30cm」ですね。バーの近くに行くと、怖くて跳べなかったので、出来るだけバーから離れていました。近くまで行ったら「こんなの跳べる訳が無い!」と思ってしまうから、出来るだけ離れて…(笑)。当時、競技場がそんなに整備されていない時代でしたから…下がアンツーカーっていう土のグラウンドなんですよね。最後のほうだけ少しオールウェザーが敷いてあるような、そんな競技場が主流でした。そこで走高跳をやりましたね。しかも、みんな走るところが一緒だから、全部掘れていくんですよね。「ここ掘れているから、ちょっと横の方を走ろう」みたいな(笑)。すべて自己流でやっていました。

ーーまったくの自己流!?

教えてもらった記憶がないんですよね。自分でマットを出して、自分でバーをかけて、自分で跳んで…。ビデオとかもない時代じゃないですか。なので、「この高さが飛べた、じゃあもうちょっと高めを跳んでみようかな」みたいな。成長期だったんでしょうね。いろんな意味で成長期だから、記録も1年で30~40cmほど伸びましたね。

ーーまさに身長が伸びるように!

身長は伸びなかったんだけれど、「記録」は伸びた(笑)。

大きな可能性

ーー当時の柴田少年は何が優れていて、そこまで記録が伸びたんでしょうか?

実はそれが「生涯記録」でもあるんですよね。高校1年生で1、2回試合に出たきり、その後は走高跳を辞めているので。当時、ビデオがある時代でもないので、写真だけが残っています。自分の写真を見ながら「これだけ人の体って浮くんだ」って思いました。1m66cm~67cmの中学生が1m97cmのバーを跳んでいる。空を跳んでいるかのようですよね(笑)。

ーー身長のつくりや筋肉の質も違う、1人1人の生徒さんに教えているスポーツ科学に詳しい柴田先生にも解明出来ない?

そうですね。その世代の子たちにはすごい「可能性」があるんだろうなと思いますよね。今はこういう仕事をして、その世代のたくさんの子たちを見ているんですが、自分の中学時代を振り返った時に、やはり「可能性ってすごいんだな」と思いました。「もうこの子は伸びない」じゃなくて、「ものすごく大きな可能性がある」ということを、大人になった今だからこそ、当時の自分の姿を重ね合わせて、そんなふうに思うことがありますね。

走幅跳に転向した理由

ーー中学記録を走高跳で出した柴田先生が、洛南高校に入学して走幅跳に転向。これはどういったきっかけで?

大きな理由が2つあるんですが、1つは先程も触れたようにバーを見るのが怖くなってしまったたんですよ。自分の身長もそんなに伸びなかったし、走高跳の世界で勝負をしようと思ったら、2m10cmとかを跳ばないといけなかった。「到底、こんなの跳べるわけがない」と、15歳なりに自分の能力に限界を感じていたんですよね。

ーー早くも?

早かったんですね。もう1つは、中島先生に「うちで走り高跳びやらないか?」って言われて…。「設備も全部あるからうちでやれ」と。

ーー声をかけてもらったんですね。

中学ランキングトップですからね、走高跳の。その言葉を鵜呑みにして入学したら…嘘ばっかりですからね、あの人の言うことは(笑)。大体、8割は嘘だと思った方がいい!無いですもん、バーなんて(笑)。「そこの竹の棒でも使っておけばいいじゃないか!マット?マットなんか要らないよ!」なんてね(笑)。

ーー(笑)。今だから言えること?

当時から言っていましたが(笑)。「先生、マットはどこにあるんですか?」と聞くと、「そこに入っているだろ!」と言われ、当時あった自動車科の倉庫に、ほこりがかぶったマットがポチョンと置いてある(笑)。「そのマットで十分だよ!」と。

ーー柴田さんという逸材を取るために、いってしまえば、中島先生はこれ(口説き)で。

これ(口説き)ですよ(笑)。
今は僕も使わせてもらっていますけれど(笑)。

ーー洛南高校に来たら、走高跳を練習する環境がなかった?

かろうじて砂場はあったので、それは嘘じゃなかったです(笑)。走幅跳も面白いだろうなと。中学生の時も少しやったことがありましたし。記録は5m50cmから60cmほどでしたが。

無駄な練習なんてない

ーーでも、中学生で5m50cm~60cmなら十分では…?

走高跳で1m97cm跳んでいる選手が、走幅跳5m50cm~60cmじゃ大したことなかった。でも、初めて6m跳んだ時、嬉しくてガッツポーズしました。「6mジャンパーになった!」と。その秋に国体に出たんですが、そこで7m29cmの記録を出しました。

ーージャンプアップがすごい!

時々、選手にもそういう表現を使うんですけれど…普通、階段って1段ずつ登っていく。ところが、良い選手って時々、1段とばし、2段とばしっていう階段の登り方をする。どこかでドーン!と、通常のステップを踏まない時がある。桐生祥秀なんかはまさしくそうでしたね。私の15、16歳というのはそういう時期だったと思います。「2段とばし」みたいなことができた。

ーー成長期?

成長期でしたね。

ーーとはいえ、どんな練習をされて、そこまで到達したんでしょうか?

当時の高校の練習は、「とりあえず走っとけ」みたいな感じでしたからね…。

ーー短距離の選手、跳躍の選手に限らず?

「走っとけ!」でしたし、自分自身も走っていました。成長期って色んなことを吸収できるんですよね。よく「この練習は意味がない」とか「この練習をやっても無駄だ」なんてことを言う人がいますが、無駄な練習なんかじゃないんですよね。無駄にしているだけです。もしかしたら非科学的なことを無駄な練習というのかもしれませんが、現に私が高校生の時、お世辞にも科学的な練習なんてさせてもらっていません。ですが、きちんと記録を伸ばすことができました。そこには無駄という概念は必要ないんですよね。今も中高生を見ていて、出来るだけ非科学的な練習は省いてやっていかなければとは思っていますが…。もしかしたら走幅跳の選手ってせいぜい50m走れたら良いわけじゃないですか。でも、今日(※今日の練習メニュー)も(走幅跳の選手が)相当走っている。

ーー最後に120mの往復(※練習メニュー)…。

「あの練習って走り幅跳びの選手にはプラスなの?マイナスなの?」という問いがあるならば、「プラスにするのもマイナスにするのもあなたでしょ」と思います。大事なのは「与えられた練習を誠実にこなすこと」。まずはそれありきのことで、必要だとか不必要だとかは、もっと先にやればいいことです。「なんで数学が必要なんですか?」、「英語を喋れて何になるんですか?」と聞かれることがありますが、「やった」という事実が残ることが1番大切だと思っています。陸上競技の練習でも一緒だと思っているんですね。当時は「やりなさい」と言われたら、「はい」一択でした。「なぜですか?」そんな言葉は、私にはありませんでした。「やりなさい」、「はい」です。

ーーでも、今の子たちって論理的で効率的になって、科学的な考えを持つようにもなって。「それ、意味ないでしょ」と言う子が増えたように感じるんですが、洛南の生徒にはそういう子、いませんか?

皆無です。思っていることはいっぱいあると思いますけど、それを指導者として言わせてはダメですよね。選手が思うことはいろいろあると思うんです。「この練習は正しいのか否か」という部分で。僕は是だと思ってやっていますが、コーチと選手という関係性の中で、これを言わせてはいけません。

1冊の本との出会い

ーーまさにそのお言葉を聞いて、今日拝見したきつい練習をこなしている選手たちの表情がなんとなく理解できた気がします。話を「競技者・柴田先生」に戻しますが、天理大学に進まれて全日本インカレ・優勝(4年次)。その頃から目標はずっと五輪ですか?

私自身、高校3年生の時にインターハイで負けているんですよね。7m58cmを跳びましたが、負けた(2位)。そんな年に、日本人で初めて8mを跳ばれた山田宏臣さんという方がいらっしゃって。彼は、昭和45年6月7日に8mを跳ばれた。なぜ覚えているかというと、45(年)6(月)7(日)8(m)なんですね。私が高校3年生の時に39歳の若さでお亡くなりになったのですが(脳血栓のため)。実際にお会いしたこともないですし、本や書物でしか拝見したことがない方ですが…。京都と非常にご縁のある方だそうで、知恩院で階段の練習をずっとやられていたそうなんですね。その帰りに、南座の横の松葉の「にしんそば」を食べて帰るのが唯一の楽しみだった、と本に書いてあって。「とんで、とんで天まで十字架のジャンパー山田宏臣物語」という本なのですが、その本を読んだ時に「俺の目指すところって、ここなんだろうな」と18歳なりに「オリンピックを目指したい!」、「8mを目指したい」そして「教員になろう」と。

ーー洛南高校ですよね。先生をやりながら選手を?

当時は、あまり珍しいケースじゃなかったんですよね。今こそ桐生のように選手一本でやっている選手がほとんどだと思いますが、当時、教職をやりながら選手をやっているのはレアケースでもなんでもなかった。普通に「〇〇高校」と書いたユニフォームを着た選手が多くいました。当然、実業団という概念もありましたが、学校の先生になりたかった。学校の先生になりたかったというより、「洛南の先生」になりたかったんですね。

ーーそれはなぜですか?

なぜでしょうね。大学に入った時から、卒業したら洛南の高校の先生になるんだと自分の中で決まっていたんです。洛南の合宿にもずっと行っていたし、洛南の生徒たちと一緒に遠征に行っていた。森脇健児と一緒にインターハイに行った記憶もあるし、おそらくはそうなるんだろうなと。

学校の先生、オリンピックを目指す!

ーー最初に目指した五輪は何五輪になるんでしょうか?

ソウル五輪ですね(1988)。その前にもロサンゼルス五輪が大学3年生の時にあったんですが、それには届かなくて。怪我もしていましたし。ソウル五輪が25歳の時に開催されるのが決まっていたので、それを目指そうと思っていたわけですが…「学校の先生」というのは、まぁ大変でした。想像していた生活とは180度違いましたね。なんとなく「大変なんだろうな」というのは教育実習などで感じたこともありましたが。実際に先生になってみて、「陸上さえやっていればいいんだ」と思っていたことは、若く、甘い考えでしたね。当然、授業はやらないといけないですし、いろんなことをやらなければいけない。特に超新米教師で、周りにいらっしゃる方、全員私の恩師で…その中で生活をしていかないといけないし、練習もしていかないといけない。加えて、当然、陸上部も見ていかなきゃいけない。想像を絶する大変さでしたね。

ーー1日のタイムスケジュールはどういった感じだったんでしょうか?

6時半過ぎに学校に着いたら、教官室の掃除をし、コーヒーを沸かして。先生が来られたら「おはようございます」と挨拶をし、グラウンドに行って朝練習をして…。そこから学校が始まります。たくさんの授業の後、放課後の公務もあります。そこから陸上の練習をして、ヘトヘトになって帰っていましたね。その繰り返しをずっとやっていました。最初は大学生の時の貯金が残っていたからできたけれど、2年目に体重が激減しまして。身体もだいぶ悪くなってきて「現役続行は無理かな」と思っていたけれど、ソウル五輪は目指していたので。「辞めるなら、目指してから辞めよう」と。中島先生にもご協力頂いていました。授業や、大会遠征に行った時の配慮であるとか…。「この1年しかない!」と思って、ソウル五輪を目指しました。

ーー今のお話を聞いていると、どこの時間で練習していたのかな?と思うんですけれど…。

そうなんですよ。この経験というのは今でも役に立っているんですが、例えば、授業って1日に3~4コマあったんですけれど、空き時間が1~2時間程あるんです。その空き時間に「30分練習をしよう」とか。そういう時間を工面してやっていかないと、なかなか出来ないですね。今、会社勤めの選手の場合、半日仕事をして、その後の時間を練習にあてるかと思います。しかし、当時の私の場合、ずっと仕事があります。当然、生徒たちと一緒に走ったり跳んだりしているんですが、それだけでは自分の思い描く練習ができないので、トレーニングルームを使わせてもらったりしながら、時間をうまくやりくりして。「時間だけは平等に流れる」というのをずっと教えてもらっていたので、これだけは何とか使おうと。こういう経験は、今でも役に立っていますね。

オリンピックを決めた壮絶な日本選手権

ーーそして、ソウル五輪を決めた大会は日本選手権ですか?

日本選手権ですね。当時、参加標準記録はそこまで高くなかったんです。7m85cmというのが参加標準記録だったんですが、織田記念陸上(広島)で7m96cmを跳んだんですね。それまで五輪出場は遠い話だと思っていましたが、ずいぶん近いところにオリンピックがあることを感じました。6月に「日本選手権(国立競技場開催)」があるんですけれども、日曜日が大会当日だったんです。同時に、当時3日間開催だった「近畿インターハイ」もあって。木曜日から神戸に入って、金曜日の大会と土曜日の午前中まで神戸にいて、土曜日の昼過ぎの新幹線で、新神戸から東京に入り、日曜日の日本選手権に参加するというスケジュールです。当時、教え子がインターハイを目指しているわけです。当時は神戸インターハイという大会名でしたが、それをまさしく命がけで目指している。高校生にとっても、これは五輪と同じ価値のある大会だ、と。今でも僕はそう思っています。生徒たちはインターハイを目指し、私は五輪を目指している。「お前たちはインターハイを目指せ。俺は五輪を目指す!」、そう言って東京に行きましたね。

ーーもしかしたら、選手たちも「先生が五輪を目指してるんだから、僕たちもインターハイを目指そう!」と。

そう思ってくれていたら嬉しいです。当時、携帯電話も何もない時代じゃないですか。全然、記録が分からない。高校生がどんなことをしているかがすごく気になっていましたが、当日は自分のことに気持ちを切り替えて、自分の跳躍をするだけだと思っていました。

ーーその跳躍のシーンって覚えていますか?

覚えていますね。もう全シーン覚えています。1本目から最後まで覚えている。アップをやっている時から、「今日は跳べるんじゃないか?」って。1本目は「とにかくトップ8に残る記録を残そう」と思い、3本目くらいに7m80cm台の記録を出して。4本目に8mを超えましたね。8m04cmでした。

ーーそれは自身初の8m? それを日本選手権、五輪選考大会で?

そうですね。ピットに立った時に色んな声が聞こえるんですね。今までは聞かないようにしていたんですよ。ですが、当日はスタンドからの声とか、色んな声が素直に身体に入っていくのを感じましたね。すごく、自分の中で集中できていた。今までは「排除しよう、排除しよう」、「音を聞かないでおこう」、「自分の世界に入ろう」と思っていたんだけれど、いろんな声を聞いて、その中で自分は競技をさせてもらって、「ああ、幸せだな」と感じました。
そして、この1本で長年夢に見ていた8mを跳べるんじゃないか、と。オリンピック出場というより、その時は8mが跳びたかったので。結果、8m04cmの記録を出しました。たった4cmでしたが、超えたのが分かったんですよね。

ーーどんな感情になりましたか?

まだ競技は終わっていなかったけれど、その時は25歳という若さだったし、感情のコントロールが出来ないくらい嬉しかったですね。飛び跳ねていました。でも、その後に逆転されるんです。私の「ライバル」という言い方をしたら、その人はいつも怒るんですが…臼井淳一さん(ロスオリンピック7位入賞)に逆転されました。この人は「超スーパースター」です。当時8m10cmの日本記録を持っていた人でした。案の定、5本目に8m06cmを跳んできた。「やっぱり強いな」と思いましたが、負けたくなくて。5本目はファールだったんですが、6本目に8m06cmという同記録を跳んだんです。セカンド記録が私は8m04cm、臼井さんが8mだった。セカンド記録だけれど4cmの差で、同記録でしたが日本選手権初優勝。負けていたら、多分五輪も外れていたと思います。8m06cmは追い風参考記録だったけれど、順位には関係ないのでそれが初優勝。晴れて、五輪への切符を手にすることができました。

ーー洛南高校のみなさんもよくやった!という感じ?

やっぱりあの時の洛南高校はすごく一体感があった。本当によろこんでいただきましたね。生徒にも胴上げをしてもらって…すごく喜んでくれた。「自分が好きでやっていること、自分のためにやっていたと思っていたことが、これだけ多くの人に影響を及ぼして、多くの人が喜んでくれるんだ」と、その時初めて思いましたね。

夢の舞台!ソウルオリンピック(1988)

ーーそして迎えた1988ソウルオリンピック。舞台を振り返っていかがですか?

結果は予選落ちでした。こんなことを言ったら叱られるかもしれませんが…正直、目標は世界で戦うことではなかったんです。それより、「こんな小さな体(170cm)でも8mを跳べるんだ」ということを証明したかった。そんな心持ちの中、「世界と勝負しなさい」と言われても、私にはそれだけのアドレナリンも能力も残っていませんでした。ただ、予選落ちで情けなく帰ってきたけれど、スタジアムでは日本の国旗が振られている。あの様子を見た時に「ナショナリズム」というものを感じましたね。「日本人なんだ、頑張らないといけない」と。その頃は緊張してガチガチになっていましたが、今もオリンピックを見るにあたって、国の代表として参加している選手、皆それぞれ、「自分の夢や目標を掲げ、チャレンジを怠らずにやってきてここにいる選手なんだ」と感じます。テレビから見る選手に対して、私たちは勝敗だけを気にしてしまう。勝敗だけじゃなくて、その奥にある「目指す」、「チャレンジする」という選手の姿。これを私の経験を通して、若い人たちに伝えていきたいですね。

引退を決めた日のこと

ーーその翌年の日本選手権も連覇をされて、どこまで行くのかな?というところで引退を…。

29歳のバルセロナオリンピックの時に引退を決めました。一応…というのもダメかもしれませんが、バルセロナオリンピック自体は目指したんです。必死になって目指していた中、森長正樹選手(現日本大コーチ)や朝原宣治選手が出てきました。正直なところ、この人たちと同世代じゃなくて良かったと思いました。才能に溢れていましたからね。私には無いような才能が2人には溢れていた。オリンピックの年にしか引退出来ないと思っていたので、「4年に1度のこのチャンスを逃してはいけない」と思い、引退を決めました。今考えると、もう少し出来たのかもしれませんが、それは私にとっても職場にとっても良くないことだと感じていました。とはいえ、まだ7m90cmくらいは跳んでいたんですけれどね。

柴田博之監督と桐生祥秀選手

ーーすごい…!そこからは指導者一本でされてきたと思いますが、奇しくも朝原宣治さん(10秒02(100m))の時代を経て、伊藤浩さん(10秒00(100m))がつながれて、長らく出なかった「9秒台」への壁をぶち破る選手を育てられたということで…。「桐生選手との出会い」はどういったものでしたか?

桐生はやっぱり「特別」だと思います。「学校の先生」としてこういった言葉を発するのは良くないと思いますが、「指導者」という立場でこういった言葉を発することを許していただけるのであれば、桐生は「特別」です。

ーー何が違うのでしょうか?

全てが違いますよね。あの子は僕に「夢」を与えてくれました。桐生と出会った頃というのは、私自身が指導者として自信を無くしていた時だったんです。指導者としてうまくいかない時期でした。何をやっても勝てなくて、失敗してばかりの時に、桐生という選手を預からせてもらいました。それまでもいろんな選手をたくさん見て来ましたが、その中でも、彼は「夢」を与えてくれた選手でしたね。「高校の先生にこんなことが出来るのか」という、指導者としての莫大な夢を与えてくれました。
彼の才能について、専門的なことを言いだすとキリがないんだけれど…あれだけ足が速く動く選手なんて、見たことありませんからね。

ーーやはり回転数なんでしょうか?

うーん…回転数だけなら他にもいるだろうけれど、(桐生選手の場合)ちゃんと前進しているんですよね。高校に入学した当時は、のけ反ってしまっていて、全然いいフォームで走れていませんでしたが、トレーニングをこなしていく上で、劇的に変わってきて。「これだけ綺麗に足が動く選って他にいるんだろうか」って思いましたね。この選手と出会えたことは、指導者として財産だったと思っています。

ーー柴田先生が桐生選手に「もらった」ということを前提としてお話されていますが、まずは柴田先生が桐生選手に「与えている」と場面も多くおありだったと思います。何をご指導されたのか、全国の指導者が気になっていると思うのですが…。

みんなそうおっしゃるんですけど、(どの選手にも)同じことをさせていますからね。桐生だけ特別にさせたことは、全くないんです。「お前は特別ね」という練習を1度も入れたことがない。今でも彼は合宿や練習に来ることがありますが、高校生と同じメニューを一緒に取り組んでいます。「あの選手にはこのメニューが合っている」みたいな練習はさせません。「私が育てた」なんて、おこがましくて言えないです。私は10秒05でしか走ったことがありませんからね。

ーーいや、十分速いですけどね!(笑)。

10秒00で走る、9秒台で走る…そんな選手の感覚なんか、分かるわけありませんから(笑)。

ーーでも、柴田監督が指導していたことは間違っていなかったということだと思います。今いる生徒たちで、100m10秒台の選手って何人いるんですか?

あまり数えていませんが、14・5人はいるんじゃないでしょうか。

ーーすごいですね。

時代も変わって来てますからね。大前提として、実力のある子が入ってきてくれてますし、ひと昔前の10秒台とはちょっと違います。僕らの時の10秒台なんて「スーパースター」ですからね(笑)。今は設備も良くなって、トレーニングも変わってきて…さまざまなことが変わってきています。なので、今と昔を数字だけで比較するのはナンセンスですが、14・5人はいると思います。

ーー「この選手は注目しておけ」という選手はいますか? 

いっぱいいますよ。いっぱいいるんだけれど…内緒だね(笑)。

ーーここだけの話…(笑)。

ここだけにならないじゃん(笑)。

ーーその選手が大きくなられたら「あの時の選手はこの選手だった」と教えてくださいね(笑)。

柴田監督が大切にしている言葉

「枯れても腐るな」です。毎年春になったら、グラウンドにツツジが咲くんですね。冬はみんな枯れているんですが、根がしっかりと生えているから、枯れていても腐ってはないんですよね。今、辛抱していれば、春になったらまた美しい花を咲かせてくれる。実は、丸尾知司(競歩・東京五輪出場)がこの言葉を座右の銘にしてくれているんです。高校の時に彼が怪我をして松葉杖をついて車椅子に乗っていた時に、私が「枯れても腐るな」という言葉を送ったようなんです。僕はあまり記憶には残っていないんですけど、それを励みにずっと競歩を歩んでくれたみたいで。改めて、私自身もこの言葉を心に刻もうという気持ちを込め、伝えさせて頂きます。

※この内容は、「一般社団法人陸上競技物語」の協力のもと、YouTubeで公開された動画を記事にしました。

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