『お茶と権力 信長・利休・秀吉』出版記念対談  茶人田中仙堂×小林賢治氏【中編】

投資家の小林賢治氏は、意外なことに文学部の大学院出身。それも美学専攻です。今回の対談では、芸術家像との向かい合い方、音楽と茶道の共通点を探ります。『お茶と権力』に光を当てるため、楽器も演奏され音楽美学を専攻された小林氏のお話と仙堂会長のバックグランドが重なる部分から対談は展開されます。そして、投資家としての姿勢へと対談は発展し、話は締めくくられます。本対談は、前編、中編、後編の3篇に分けてお届けするうちの中編です。

小林氏プロフィール
兵庫県加古川市出身。東京大学大学院人文社会系研究科美学藝術学にて「西洋音楽における演奏」を研究。在学中にオーケストラを創設し、自らもフルート奏者として活動。卒業後、株式会社コーポレイトディレクションに入社し経営コンサルティングに従事。その後、株式会社ディー・エヌ・エーに入社し、取締役・執行役員としてゲーム事業、海外展開、人事、経営企画・IRなど、事業部門からコーポレートまで幅広い領域を統括する。
朝倉祐介、村上誠典と共に、2017年7月にシニフィアン株式会社を設立。2019年に同社とみずほキャピタル株式会社をGPとする投資ファンド“THE FUND”を立ち上げ、新産業の創出に向けたグロース投資を行っている。

音楽と茶道の共通点

田中: 演奏と茶会の関係を指摘していただいたところで、それをもう少し深めていきたいと思います。これは、細かく分けると、二つの次元があるような気がします。一つは、その作曲の場合の楽譜に例えれば、茶の湯だったら、一定の手順があります。利休がやった手順を利休の楽譜とすると、それを演奏する人たちは、その通りにやろうとしても、どうしてもその人たちの解釈なり、何かが入ってくる。それは、作品というレベルでみれば、多様な解釈と捉えることができるわけです。それからもう一つは、音楽の場合も同じだと思いますが、その周囲を取り巻く意味づけがあります。例えば、小林さんがおっしゃったように、ベートーヴェンの時代とその芸術について、演奏というものは、集中して真面目に聞かなければいけないものだというように変わったように、音楽ってこういうものだよねという理解自体が、変わってくる。同様に、お茶というものの意味づけも変わってくるわけです。

小林:意味づけが変化すると思うと、音楽もお茶も、行為と結びついた芸術活動といえますね。例えば絵や彫刻というのは、実際に「もの」としての存在が確かですから、どこからどこまでが絵なのか、彫刻なのか、ということについて疑問の余地がありません。このような物質性が強い芸術と異なり、音楽やお茶は、毎回誰かがやっている行為であるという面白さがあります。今、お話をしながら、私は音楽とお茶に共通するものを感じました。

田中:そうですね。絵の場合、昔のものを再現するとなったら、積み重なった汚れをきれいにしたら、昔と同じになりました、当時の色が蘇りましたとなるわけです。でも、例えば昔のバイオリンは音域が狭かったからといって、昔と同じバイオリンで演奏して、それが良かったねといえるかどうかは微妙な問題です。

小林:変化していくということを前向きに捉えられるというのは、私が非常に面白いと思っているところです。これは余談ですが、今年のショパンコンクールで、審査が非常に揉めたらしいのです。「ショパンらしい演奏ってこういう演奏でしょう」という、保守的なことを考えておられる審査員と、「ショパンってこういう演奏もあってもよいのではないか」という革新的な審査員の方がいて、評価が大きく割れたそうです。実際、上位入賞者の方々の演奏は、非常に多様でした。確かに、こんな演奏はあまり聞いたことないなというような演奏もいくつかありましたが、私はそれが駄目だとは思わず、逆に新しい可能性を感じました。今、インターネットがこれだけ普及した時代において、例えばショパンの音楽を聞きたいなと思ったら、ちょっと検索すれば、YouTubeや音楽のサブスクリプションサービスで、1分もかからずにその曲を探し出して聞くことができます。しかも、世界の名だたる奏者が演奏したものをすぐに聞けるわけです。このようなものがすぐ手に入る時代に、なんでわざわざ演奏家は今もショパンの演奏をしているのか。既に、アルゲリッチとかポリーニといった歴史的に偉大な奏者が演奏していて、それをいくらでも聞くことができるのに、なんでわざわざ新たな演奏をするのかというと、それは、少しずつその作品の概念を拡げることに繋がるからだと思っています。

仮に今、利休が蘇って、お茶を点てましたとなったとします。そうしたら、もうそれだけ味わえば良いということではなくて、いろんな人が関わる行為があって、それが積み重なってお茶が広がってきたように、もう、この人がいればよい、この人がいればそこで文化が終わるというものではないと思います。これは、私が演奏について考えていることですが、お茶についても同じことがいえるのではないでしょうか。

田中: 私も、似たようなことを考えたことがあります。お茶の世界では、点前が演奏に相当しますが、きちっと形を残さなければいけないということで、修行しているわけです。ところが、大阪に国立民族学博物館ができたとき、民族学博物館にはいろいろな国の民族の風習にとってビデオで録画したものを保存しているのだと聞きました。その時に、優れた茶人の点前を録画しておいて、それが良いものだということで、民博にアーカイブしておいたら後は余計なことをしないようにする方が、伝統を変えずに保存できるのではないだろうか、というようなことを考えたことがあります。そこには、当然何を残していくかという問題があります。また。今小林さんが提起したことですが、今までの音楽家というのは、過去に優れた音楽家がいたというのを伝説として知っているだけでした。しかし、今の音楽家というのは、演奏が記録として残されるわけですから、聞き比べたりされてしまうわけです。ある意味とんでもない状況に置かれていますよね。

小林:そんな中でオリジナリティを出さなければいけない。一方で、外れすぎても駄目で、その間でうまい頃合いでやっていかなければならないわけです。私はそんなにお茶に詳しいわけではありませんが、お茶の世界でも、さすがにそこを逸脱したら駄目だという部分はありつつ、何か、その人なりの個性が現れるのではないかと思います。その点では、演奏とお茶は、本当に良く似ていると感じます。

田中:今のお話で、小説家の庄司薫のエピソードを思い出しました。彼は、日比谷高校の時代に、世界文学全集とか日本文学全集とかは全部読破して、それだけ素晴らしい作品があるのに、今、自分はあらたに小説を書く意味があるのか、というようなことに葛藤したと書いていました。今、音楽家は過去の名演奏と比較されるというお話が出ましたが、それこそ文学の世界なら、もっと昔から、ギリシャ時代のものが残っていて、それと比較されてしまうわけです。そのつらさは、演奏やお茶以上かもしれませんね。

お茶は相手とのコミュニケーション

田中:さて、お茶についていえば、なぜ違った形でするかということを考えた時に、それは多分オリジナリティだからとか個性を出すとか、そういうことだけではないのです。お茶の場合は、毎回、お客様が違うわけです。その人のことを考えて、道具を選んだりするわけですね。演奏家も、音がこの人に届くかっていうことを考えるでしょう。どのような会場で、どんな聴衆に向けて演奏するのかということを考えて、アレンジをするのだと思います。素人考えですが、微妙な差を聞き分けられる人に向けた演奏であれば、そこを切り出してくるし、そういうことをやっても、言い方は悪いですが聞き分けられない相手だと思ったら、もう少し違うところで満足させてやろうというようなことを考えるのではないでしょうか。お茶の場合は、いらっしゃる人との共通の話題が何で、この話題でこうすればこうなるだろうとか、そのようなことを考えます。お茶にしても演奏にしても、主人、演奏者も、受けても一人一人の人ですから、それを意識すると、変わっていかざるをないのです。

小林:いつ何時も文脈と関係なく、最も良い方法というのがあるわけではなく、文脈というか、客人との関係性の中で、何が最善なのかが成立していくわけですね。それはとても興味深いですね。

田中:音楽が好きな方は、多分、好きな曲を、沢山の方の演奏で持ってらっしゃると思います。でも、いつも同じものを聞くのではなくて、今日はこの人の演奏を聴きたいとか、そういうことがあるでしょう。

小林:そのような相手との関係性の中で変化していくことはありつつも、とはいえ、一定のルールの中でやってくださいという、そのルールというのは不変なのでしょうか。それとも、大枠のルール自体も歴史的に変わってきたものなのでしょうか。一番守らなければいけないルールというのは、どういうものなのでしょうか。

田中:私は、それは人間と人間のコミュニケーションというか、相手に対してどのように近づいていくか、人と人で理解し合えるか、というような所だと思います。ただ、それは、数学の公式のように初めからきちんとあるものなのか、あるいは、歴史の振れ幅の中で、帰納的に、これがずれてはいけない道なのだというように見えてくるのか、どちらなのかと考えると、帰納的に見つかってくるものではないかと思います。演繹的に答えを出せないから、そのように自分でごまかしているだけかもしれませんが。

自分たちが追求している道と呼ばれる世界では、守破離という言葉がありますが、初めから大きな幅の中でやりなさいと言われても、どうしたら良いのか分かりませんよね。そこで、言われたとおりにやりなさいと言われて、最初のうちは意味が分からなくても違っていると怒られたりします。そういうするうちに、ある程度自分の中で、一通りの動きが出てきたら、そこで自分の解釈を出していけるようになります。音楽でも、ピアノやバイオリンを、ろくに弾けずに音も出せないような人が、自分なりに解釈していいよと言われて何か出しても、それはただの出鱈目です。やはり、きちんとした音階が出せるとか、絵を正確に表現できる人が何か外したものというのは、上手くいえませんが、最初から滅茶苦茶なものとは何か違うということを、我々は認めているのだと思います。

小林:行為の芸術である演奏では、ベースになる技能、技量が一定水準あって、それを前提に、どうやってオリジナリティを出すかっていうときに、どこを破ってどこへ行くかという話が出てきます。そこは、お茶と音楽で非常に似ているところだと改めて思いました。

*後編に続く

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