「50歳まで投げられたのは、鳥取のトレーニングジム小山裕史先生との出会いがあったから」元中日投手の山本昌さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(6)

 最年長勝利記録を更新した中日投手の山本昌氏=2014年9月、ナゴヤドーム

 プロ野球のレジェンドに、現役時代やその後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第6回は元中日投手の山本昌さん。鉄人左腕が50歳まで現役を続けられた要因は、やり始めると何事も途中で投げ出せない性格が大きいようだ。(共同通信=栗林英一郎)

 ▽衰えたと感じたところで貴重な出会い

 現役時代に自分がやったのは必死に食らい付くことだけだった。体が強くて球団が寛大だったから長く野球ができたけれど、技術的には全く劣っていた。もっとすごい選手はたくさんいる。でも、僕はついていた。人との出会いであったり、環境であったり。そういうものにすごく恵まれた。

 影響が大きかったのは、鳥取市のトレーニングジムの小山裕史先生。出会ったのは30歳になって、ちょうど膝を手術した頃だ。先輩たちが、けがからどんどん衰えていく姿を見てきて、自分もその年齢に来たかと思っていたところだった。

 鳥取市内のトレーニングジムで自主トレを公開した山本昌さん=2012年1月

 そこを転機に体の使い方、体の仕組みを勉強し、すごく考えた野球をするようになった。不調の原因や調子が悪くなる前兆とかが分かるようになり、不調から脱出するのも早くなった。それまでは体を鍛えるにも、もっと上手になるにも(方法が)漠然としたものだった。こういうふうに練習しようとか鍛えようとか、こういう動きをしたらもっと良くなるとか考えるようになったから、引退するまで影響は大きかった。小山先生との出会いがなければ50歳までできなかっただろう。 例えば先生と話す中で、やっぱりコントロールは形なんだと思った。狙ったところに行きやすい投球の形。僕はコントロールとは確率だと考える。どの投手も全部が全部、100%は捕手の構えたところに行かないから、確率がすごく大事。確率を上げるには、やっぱり動きだと思う。

 

 1994年10月の阪神戦で19勝目を挙げた山本昌さん。このシーズンは19勝で最多勝と沢村賞に輝く=ナゴヤ

野球はダーツと違って速い球を投げなきゃいけない。ダーツは皆さん同じフォームになる。あれは無駄をそぎ落としてコントロールがつく投げ方。野球はそうはいかない。スピードを上げて制球も良い形。そういうものを追求した。指先の感覚が良い人でも形が悪かったら狙い通りには行かない。そういう面も含めて、僕は小山先生と一緒に勉強して教えていただいた。

 ▽自分の体にアンテナを張って

 プロ入りした新人へアドバイスをするなら、長く現役でいたければ自分の体にしっかりアンテナを張っておきなさいと言いたい。アマチュアとプロの一番の違いは医療関係だ。マッサージであったりケアであったり、リハビリであったり。各球団にトレーナーが7、8人いる。コーチには医療も勉強した方たちもいる。そういう人たちを利用して、自分の限界をしっかり知っておかないと。これ以上やったら壊れるとか、おかしいと思ったら、すぐにそういう人を頼ること。2、3日休めば済むことが、1カ月、半年、一生のけがになることもある。自分でしっかりとアンテナを張って判断できることが第一だ。

 広島戦でプロ入り初先発した山本昌さん=1988年9月、広島

 長く選手を続けるための気持ちの盛り上げ方もよく聞かれるけれど、モチベーションが下がったことがないので分からない。職業なんだから下げちゃ駄目。これで飯を食っているのだから。モチベーションが下がってしまうのは甘えなんじゃないだろうか。調子の悪い時には現状を打破し、試合に出られないなら出られるように頑張るしかない。僕はそういうふうに思ってやってきた。

 やっぱり大観衆の中で活躍して、皆さんに声援をいただいて試合に勝ってという、あの喜びは何物にも代えがたい。それを感じたいのに、出られないからとか調子が悪いからとか、そこでモチベーションを下げても仕方ない。僕のモットーは「体技心」。まず体が健康で、技術を身に付けて、心は最後だ。心なんて自分の考えで何とでもなる。気持ちの持ちようで、いかようにも変わる。

 僕はよく多趣味といわれる。実は小さい頃からやっていることが変わらないだけ。野球をして、虫を取って、スーパーカーや無線操縦のレーシングカーが好きでとか。一度手を染めると長い。何でも、やり始めると分からないことがあるのが嫌なのだ。途中で挫折はしない。もったいないというのが先に立つので投げ出せない。やったことに関しては、かじりつこうとする。僕はこういう性格で良かったと思っている。

 ▽日本全体がDH制を採用するかも

 打席に立った時のバントは緊張した。ただ、試合が競ってくると自分も気合が入り、8番打者が先頭なら「出てくれ。僕にバントをさせてくれ」と願った。1死二塁にして上位につなげるからと。投手のバントはすごく流れが変わる。失敗すれば意外と引きずってしまうし、勝ちゲームでも一気に流れが向こうにいったりするので。だから、バント練習は毎日していた。でも、ヒットも結構打った。投手としてはまあまあだと思う。打率が2割3分台のシーズンもあった。

 ヤクルト戦で適時打を放つ山本昌さん。48歳0カ月で、安打と打点のセ・リーグ最年長記録を更新した=2013年8月、神宮

 もし、セ・リーグがDH(指名打者)制を採用した場合は、少年野球から大学まで日本の野球全てがDHを使う流れになる気がする。母校(神奈川・日大藤沢高)で臨時の指導をやらせてもらって感じるのは、9人より10人の方が指導者や親御さんは助かるかもしれないということ。頑張っている子たちを一人でも多く試合で使ってあげたいと思っている人が多いので。みんながみんなプロ野球選手になろうとしているわけではないから。

 50歳1カ月26日で先発登板し、プロ野球史上初めて50代での登板と出場を果たす。これが現役最後の登板で、涙ぐむ山本昌さん=2015年10月、マツダ

 当然、大谷翔平君とか、ああいう選手が出てこなくなる可能性もある。ことプロになると、投手が打席に入って、どういうバッティングをするか、どういう作戦を採るか見たいと楽しみにしているファンもいる。野球が変わることがいいのかと危惧する方もいらっしゃる。それも全て含めて考えなければいけない。

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 野球殿堂入りが決まり、指導を受けた故生原昭宏氏のレリーフの前で記念撮影する山本昌さん=2022年1月、野球殿堂博物館

山本昌氏(やまもとまさ)1984年に神奈川・日大藤沢高からドラフト5位で中日入団。米国留学で覚えたスクリューボールを武器に活躍し、最多勝3度、94年は19勝で沢村賞。41歳のノーヒットノーランや49歳の勝利投手など数々の最年長記録を持つ。2008年8月に200勝へ到達。15年に50歳で引退。通算219勝。本名は山本昌広で、現在も選手時代の登録名で活動している。神奈川県出身。65年8月11日生まれの57歳。

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