「日本にまた行くのが本当に楽しみ!」WEC富士を前にデュバルが日本でのキャリアとファンを語る

 8月17日、プジョー・スポールは9月11日に、静岡県の富士スピードウェイで決勝レースが行われるWEC世界耐久選手権第5戦『富士6時間レース』を前に、チームのホームページ(https://peugeot-sport.com/)内で、プジョー・スポールのドライバーであるロイック・デュバルのインタビューを掲載した。日本への愛情、そして日本のモータースポーツ界の情熱について語られている。

 デュバルはF3ユーロシリーズを戦った後、2006年に来日。当時の全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(現スーパーフォーミュラ)、スーパーGT GT500クラスに挑戦。2009年にはフォーミュラ・ニッポンの、2010年には小暮卓史とともにウイダーHSV-010を駆り、GT500のチャンピオンを獲得した。

 2012年からはアウディのドライバーに起用され、少しずつ活動の場をWECに移していったが、2014年までスーパーフォーミュラに挑戦した。日本はデュバルにとって9年ほどを過ごした思い出の地だが、そんな日本への愛情をひさびさにWECが開催される9月の富士6時間を前に、チームのホームページでのインタビューのなかで語った。

「僕が初めて日本を訪れたのは、2005年の終わりに鈴鹿で行われた中嶋悟さんのチーム(NAKAJIMA RACING)のテストに参加するためだった。それは僕の人生を変える瞬間で、今日のドライバーとして、そして人を形成する役割を果たした瞬間だったんだ」

「僕はルノーのドライバー育成プログラムの一員としてF3ユーロシリーズのシーズンを終えたばかりで、F1に目を向けていたんだ。若いヨーロッパのドライバーならそうだと思うけど、僕のアジアの経験は中国とマカオでのレースに出ただけだった。いつもにぎやかで、少し攻撃的で、ちょっぴり不安が残る印象があった」

「そのテストのために東京の成田空港に着いたとき、日本の高速列車である新幹線で鈴鹿に向かうために、いくつかの指示が僕のポケットに入っていた。だけど東京の広大な地下鉄までたどり着いてチケットを換えようとしたとき、まさに『ロスト・イン・トランスレーション』の瞬間になってしまったんだ」

「だけど信じられないことに、F3ユーロシリーズで一緒だったファビオ・カルボーンに偶然会ったんだ。彼はすでに日本でレースをしていたので、僕が何をしようとしているのか理解してくれた。そして鈴鹿まで一緒に旅をすることになったんだ」

 翌2007年には、スーパーGTで現在では珍しい外国人コンビとしてEPSON NSXをドライブしたデュバルとカルボーン。なかなか興味深いエピソードと言えるだろう。

2007年スーパーGT第9戦富士で優勝したロイック・デュバルとファビオ・カルボーン
2010年のスーパーGTでチャンピオンを獲得したウイダーHSV-010のロイック・デュバル、小暮卓史

■「日本は僕が想像していたよりはるかに優れていた」

 デュバルのインタビューはまだまだ続く。

「それまで鈴鹿でレースをしたことはなく、クルマに乗るのも初めてだった。当時シミュレーターは、現在使われているような高度なものは存在しなかったからね。シミュレーターがあれば、家を出る前にトラックとクルマに慣れることができるんだけど」

「僕の意見では、フォーミュラ・ニッポンは昔も、そして今も、シングルシーターとしてF1に次ぐ最高のものであり、鈴鹿はベンチマークとして際だったものだ。だからその時にはたくさんの課題に直面したものだったけれど、嬉しい驚きもいくつもあったんだ」

「日本のモータースポーツファンとの出会いは、サーキットのゲートで始まったんだ。そこでは、いろんなシリーズで戦っていた僕の写真をたくさん持っているファンに迎えられたんだよ! テストはすごく寒かったけれど、彼らは日本にきたばかりの僕に、お望みの温度を選べる自動販売機で買える、缶入りのコーヒーをくれたんだよ」

「チームと僕はすぐに意気投合したよ。エンジニアは英語を話すことができたけど、他のメンバーとは身振り手振りで話さざるを得なくて、いくつもコミカルな状況になったけどね。でも人生を変える瞬間を経験していると感じたのは、最初の数周を走った後だった。クルマも技術面も、人的リソースも、そしてレースへのアプローチも、僕が想像していたよりはるかに優れていたんだ」

「日本ではどんな役割を担っていたとしても、みんながそれぞれの分野で非常にプロフェッショナルで、細心の注意を払っている。彼らの哲学なんだ。中嶋さんのチームでもそれは例外じゃなかった。テストの後、彼らは僕にプロとして、報酬を払ってレースを戦うオファーをくれた。僕が家に帰って決断するまで、それほど時間はかからなかったんだ。両親からは移動と距離がF1に向けたキャリアに影響するんじゃないかと心配されたけど、僕は受け容れることにしたんだ」

「2006年のはじめ、僕はチームの拠点に近い御殿場に引っ越した。メカニックやエンジニアのみんなが、僕が落ち着くのを助けてくれたんだ。インターネットが開通しているかを確認してくれて、ショッピングのアドバイスをくれたりね」

「僕たちはシーズンに向けて準備をしていき、富士で開幕戦を迎えた。そのレースはセーフティカーランだけで終わってしまったけれど、(第2戦)鈴鹿で初優勝を飾ることができたんだ。みんなの信頼を勝ちとるのに最適な方法だった」

「日本のチームは自分たちの母国で育った優秀なドライバーがいるのに、なぜヨーロッパの、それもフランスのドライバーを雇うのか不思議に思う人もいるかもしれない。僕だけじゃなく、ブノワ・トレルイエやアンドレ・ロッテラーなど、さまざまな外国人ドライバーがいたけれどね」

「たぶん、彼らは僕たちが敬意を払いつつも、ある意味で物事を自分たちのやり方でやるスタイルを評価してくれていると思う。彼らは僕たちの仕事を興味深く見てくれていたと思うんだ。日本には『出る杭は打たれる』ということわざがあるけれど、僕たちヨーロッパのドライバーは、常にそうであるとは限らなかった」

2010年フォーミュラ・ニッポン第4戦もてぎ
2012年、富士スピードウェイで会見した一貴、ロッテラー、デュバル
2012 JAF Grand Prix FUJI SPRINT CUP ロイック・デュバル(KYGNUS SUNOCO)

■「日本で過ごした数年間はすごく大切な時期」

 デュバルはまた、日本でのキャリアのなかで文化を楽しみ、そしてまたWEC富士で日本のファン、友人たちに会うことを楽しみにしていると語った。

「僕はフォーミュラ・ニッポン、スーパーGTでどちらもチャンピオンを獲得し、清潔で安全で、敬意に満ちた日本で素晴らしい数年間を送ったんだ。ガエル──今は僕の妻となったけれど、最初は御殿場に住み、その後ボスの許可をもらって、ともに東京に住んだ。僕は文化、食事、すべてに魅了された。お茶会では着物を着たこともあったよ!」

「サーキットでは、F1ドライバーたちがヨーロッパで味わうのと同じ熱意を体験したんだ。パドックを歩くのはいつも大変だ。なぜならそこはファンでいっぱいだからだよ。僕は自分のマンガのポートレートさえ持っているよ。そして僕の息子が生まれたとき、彼はファンのみんなからたくさんのプレゼントをもらったんだ。日本にも住んでいたから、彼は今でも日本の味を求めているよ! 家族全員が箸の使い方を知っているんだ」

「個人的にもドライバーとしても、日本で過ごした数年間は、自分と自分の家族を形作るすごく大切な時期になった。僕は日本という、小さな空間のなかで多くの人々が住むために必要不可欠な、基本的な尊敬の念がある国で、新しい生き方を見つけることができた」

「僕のキャリアはやがてヨーロッパに戻ることになったけど、フランスのキャナル・プリュスのコメンタリーのために、鈴鹿で行われたF1に行くことになった。そうしたら、ルイス・ハミルトンやセバスチャン・ベッテルのバナーと並んで、僕を応援するバナーがあったんだよ! それが日本のファンのみんなの忠誠心なんだ」

「僕と家族は、いま過ごしているところに満足しているけれど、僕たちを誘惑する場所がひとつだけある。それが日本なんだ。だからWECのためにチーム・プジョー・トタルの一員として富士に行けることを僕がどれだけ楽しみにしているか、想像するのは簡単だよね!」

2019年のスーパーGT×DTM特別交流戦でのロイック・デュバル
ロイック・デュバルはプジョー・スポールの一員としてWEC富士に参戦する

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