不戦・和平の道は有ったのか?(前) カトリック修道士 小崎登明

戦争が終わった後で、平和論が沸き起こった

日本の戦争は「敗戦」という「みじめ」な状態で終わった。特に原爆の丘で敗戦を知ったとき、廃墟の中で「みじめ」さを痛いほど感じた。

戦争とは、何だ?
戦争とは、敵か、味方か、に分かれることだ。
今までは隣人だったかも知れないが、それが敵か、味方に、分かれてしまう。

敵ならば、殺してもいい。勝手に殺してもよい。殺す、殺される、厳しさがあった。殺されなければ自分が殺される。相手を先に制する、それが戦争だ。だから沢山の中国人が殺された。東南アジアの人が殺された。日本人だって殺された。原爆で殺され、沖縄戦争では火炎放射器で焼き殺された。終戦時には、大陸では現地の日本人は略奪され、死に追いやられた。ソ連軍から、沢山の日本兵がシベリアに連行され、死んだ。空襲で、無差別に多くの市民が死んだ。

これが戦争だ。戦争とは、お互いの殺し合いだ。

戦争を始めたからには、負けてはならない。絶対に、勝つ。だから「欲しがりません、勝つまでは」と、耐え抜いた。「戦争しなければ、よかったんだ」「戦争しなければ、若い人たちも死なずにすんだ」。今の時点では簡単に、そう言える。そのような「平和論」はすべて、戦争に破れ、敗戦の憂き目を見たところから発している。

戦争が終わって、沢山の人が死に、日本の国土が焼け野原になったとき、「二度と戦争はしたくない」と思い、平和論が生まれたのは当然のことである。

「再び、子供たちを、戦争へ送るな」。母親や、教師の叫び。
「二度と、原爆、戦争を、起こすな」。被爆者の叫び。
「もう、こりごりだ」。戦争体験者の嘆き。

それならば、なぜ戦争中に、「戦争は殺し合う、悪だから、止めようではないか」と、叫び声が出なかったのか。不戦・平和論は有るには有ったが、強烈な軍部の圧力で声は押しつぶされてしまったのであろうか。

戦後からの平和論や、戦争中の平和論よりも、私には戦争前に、戦争への道を止めようとする不戦の平和論は無かったのかと思う。私の平和論は、戦前に、小学校の先生から「物資、資源が足りない」「日本は貧しい」と教えられた、その時点から始まっている。何故なら、私の中で戦争の思いは、まだ整理がついていないからだ。

その時点まで振り返らなければ、真の「平和論」は生じないと思う。もう一度、私の少年時代を振り返って見よう。

戦争中に教えられたこと

私が小学生の頃、先生から受けた教育は、どんな教えだったか ―― もう一度、思い出してみよう。

当時の教師は、特に、修身と地歴教育に力を入れていたように思う。日本には資源が少なかった。石油もないし、ゴムの木もない。石炭も多くはない。鉄だってそうだ。資源が無ければ、自動車は走らないし、靴も履けない。汽車も走らない。日本人の生活は豊かにならない。現実に、日本には資源がなり。石油、ゴム、鉄、石炭。石油といえば教科書には、秋田の油田の絵が載っていた。

資源の少ない日本を繁栄させるには、どのような方法があるか。

私が少年の頃の日本は、本当に貧しかった。日本の国土は狭く、庶民は貧しかった。私の父の故郷、外海の黒崎村の家には、電気がなかった。石油ランプだった。電気が点いたのは、戦後、しばらく経ってからである。

貧しさ故に、娘を身売りする話も聞かされた。丁稚奉公、小作人農業、職場での首切り、小さな藁の家。日本人は、大日本帝国とは言いながら、貧しさに、あえいでいた。

こうした貧しさを克服するためには、近隣の、資源のある国へ、海外へ進出するしか手はない。これらの資源は、南方に豊かに有る。日本が市民生活を守り、発展させるには、どうしても、外部に目を向ける必要がある。資源の有る地域を確保する。当時は、弱い物を搾取するのは当然だった。現在の平和な感覚から、戦争時代の感覚を想像することは不可能だろう。

次第に日本は、戦争への道へと進む。日本人全体が豊かになることを望んだ。軍国少年として教育を受けた、その影響力は、恐ろしい。強い日本になるのだと、その信念で訓練された。戦争を選ばず、日本が貧しさのまま植民地化されても、よかったのか。

しかし現実には、日本軍の戦力は無かった。しかも日本人は、アメリカという物量国を余りにも知らなさすぎた。当時はまだ庶民はアメリカへ行ったことも、見たこともない遠い国であった。それでも戦争を始めた。白人は優秀だ、黄色人種はバカにされている。日本人をナメルのか。日本人には「ヤマト魂」がある。一か、バチか、一発やってみて、それで負けたら仕方がない。諦めもつく。

だが、戦争に負けるということは、当時の常識、歴史の教訓からすれば、国土を失い、国民は皆、奴隷になることだ。その覚悟はあったのだろうか。結局、大日本帝国は無残な戦争の結果、「無条件降伏」の憂き目を見た。

私の平和論は、戦前の貧困状態を、起点にする

気がついて見れば、敗戦の結果は悲惨だった。私の九歳から、十七歳の、八年間に、戦争という悲劇によって、どれほど多くの命が失われ、傷つき、犠牲になったであろうか。また、どれほど多くの人が、悲しみ、恐れ、苦しんだであろうか。敗戦の日の打撃を知っているだけに、言い知れぬものがある。

そこで私は問いたい。

あの時、昭和十年頃から、昭和十五、六年にかけて、貧しい日本の国が、「戦争の道」を選ばないで、侵略の軍隊を進撃させないで、戦争を放棄して、国を富ませる方法があったのだろうか。その方法を、具体的に、しかも説得力のある論説で示し、その平和論説を貫いた政治家なり、学者が居たのだろうか。

日本は、戦争をしないで、国を富ませる方法が、あの時点であったか――という疑問がある。もし日本が、戦争をしなかったならば、日本に、どのような発展の道が残されていたのだろうか。日本が軍部に頼らず、戦争を選ばず、平和的に解決しようとしたならば、どのような道、打開策があったのか。あの時、戦争の道を選ばずして、当時の貧しい、資源が全く無い日本を、豊かにし、発展させる道が本当に有ったのか。

戦争は確かに悪い。弱い者いじめは悪い。それはわかっている。しかし、戦争の他に、日本が繁栄する方法、道が、あの時点で有ったのか。そのことは誰も教えてくれなかった。あの当時、その方策なり、方法を、真面目に、説得力のある弁論で示した政治家、学者がいたであろうか。未だに、それを教える者はいない。今、私はその点に引っ掛かるのである。

私は、あの当時、戦争をせずして、豊かになる道を、今、知りたい。もし日本が軍部に頼らず、戦争を選ばず平和的に解決しようとしたならば、どのような道、打開策があったのか。それが今、私が最も知りたい課題なのだ。だから私の心の中では、少年の頃に受けた教育のケジメがまだ付いていない。「非戦・富国論」である。戦争をしなくて、あの時点で、国を富ませる方法である。それが知りたいと思っている。

小崎登明「平和の語り部」(自費出版2002年)より

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