沖縄にもある「保守」と「革新」、政治的立場を異にする両者がたびたび共闘するのはなぜか ルーツをたどったら「祖国復帰運動」に行き着いた

佐藤栄作首相(右)に復帰措置についての「建議書」を手渡す屋良朝苗・琉球政府主席。その前日、沖縄返還協定は強行採決された=1971年11月、首相官邸

 政治勢力を大まかに二つに分ける時によく使われる「保守」と「革新」。ごく簡単に言えば、保守は「社会の変化は可能な限り最小限であるべき」と考える政治的な立場を指し、革新はその反対とされる。沖縄県にも、保守と革新はあるが、他の地域とは少し違っている。米軍基地が対立軸になって立場が分かれ、基地を容認する政治的な立場は「保守」、基地に反対するのが「革新」だが、時に共闘することがある。米軍への怒りから、日米両政府に対し、一緒になって異議を申し立てるようなケースだ。なぜこんなことが起きるのか。背景や根底に何があるのか。沖縄で長く政治に携わり、保守陣営の「生き字引」とも言われる宮城武さん(89)に話を聴いた。ルーツをたどっていくと、1972年の日本復帰前、アメリカ統治下の「祖国復帰運動」に行き着いた。(共同通信=西山晃平)

 ▽沖縄社会大衆党
 那覇市内の事務所。壁には、米統治下の保守政党「沖縄自民党」の事務局長だった宮城さんが、佐藤栄作首相と一緒に撮った写真が飾られていた。米統治下の生活について尋ねると「米兵が集落に来れば、酸素ボンベで作った鐘をガンガンガンと打ち鳴らして知らせた。強姦やら何やらひどい時代だった」と語った。
 

取材に応じる宮城武氏=1月、那覇市

 宮城さんは1933年、那覇市生まれ。太平洋戦争末期の沖縄戦では、米軍の上陸前に、熊本県に疎開した。「夏服しか持っていない。婦人会の方々から冬物の古着を頂いた。いろいろ、面倒を見てもらいましたよ」。戦後、沖縄に戻ると故郷は焼け野原になっており、自宅の場所すら分からなかった。沖縄県庁職員だった父親は、島田叡知事と行動を共にして犠牲になったという。
 現在の沖縄を代表する建設会社「国場組」に入社。1950年、沖縄、宮古、八重山、奄美の4群島知事選があり、沖縄から立候補した平良辰雄氏を支援するため、国場組から陣営に派遣された。平良氏の公約は「祖国復帰」。知事選の後、平良氏や革新系の兼次佐一氏らが結成した「沖縄社会大衆党」(社大党)には、後年の沖縄保守政治の中心人物となる西銘順治氏も加わっていた。
 「社大党は復帰政党。群島知事選で祖国復帰を強く訴えたから、米側が嫌がった」。平良氏は当選したが、米国民政府は1952年に琉球政府を設け、4群島を解消する。

 ▽復帰への道筋
 宮城さんはその後、保守勢力がまとまった沖縄自民党の事務局長として、琉球政府のトップである第3代行政主席、大田政作(在任1959~64年)を支えた。大田主席が向き合ったカウンターパートは、高等弁務官ポール・キャラウェイ。「帝王」と呼ばれた米国民政府トップだった。
 

ポール・キャラウェイ元米高等弁務官

 陸軍軍人のキャラウェイは、住民に効力を持つ「布令」などを使って、沖縄と日本が接近しようとするところへ介入した。軍事を優先し「沖縄住民による自治は神話だ」と言い放った。沖縄の人々はキャラウェイ氏の発言や強権に激しく反発し、復帰運動は一層燃え上がった。しかし、大田主席は「今の法律では、どうにもならない」と本音を漏らしていたという。
 日本で1947年に施行された憲法は、米統治下の沖縄には当然、適用されない。それどころか、軍事優先の政策により、住民の基本的人権は無視。土地を強制収用されるなどした。こうした事態に、沖縄の革新勢力は日の丸を振り「祖国復帰を」と気勢を上げる。保守の宮城さんらの立場は苦しかった。
「僕らは『アメリカの犬』と呼ばれたよ。しかし、あの頃は完全に基地経済。強気でアメリカと喧嘩ができない。制限された自治の中で、何とか生活だけはという思いだった。心と違うことをやって、苦しかったね。でも気持ちは(革新勢力と)同じだった」
 

大田政作・元琉球政府第3代行政主席

 大田主席は、日本政府や本土の自民党との関係強化を重視した。日本、米国、琉球政府による「日米琉懇話会」の設置を提唱。日本政府からの援助拡大を図り、日琉間マイクロ回線開通にも取り組んだ。マイクロ回線が開通した結果、1964年の東京五輪をテレビで視聴することが可能となったとされる。宮城さん自身も、本土の自民党との人脈づくりに奔走し「復帰への道筋を付けた」と自負をのぞかせた。

 ▽主席公選
 米統治下の沖縄では、トップである琉球政府行政主席は、米国民政府の高等弁務官が任命していたが、1968年11月10日、主席を選ぶ公選が初めて実施された。沖縄住民の念願がかなった形だ。選挙戦では保守の西銘順治氏と革新の屋良朝苗氏が激突した。宮城さんは、基地の段階的縮小を訴える保守の西銘氏陣営の中枢で活動。一方、屋良氏陣営は「即時無条件全面返還」を掲げた。
 ところで「即時無条件全面返還」とは、どんな意味か。「沖縄県祖国復帰闘争史 資料編」(1982年5月)によると、政府・自民党側からは当時、さまざまな沖縄の日本復帰論が提唱された。教育権に限った返還、米軍基地の運用に支障のない宮古・八重山を分離した返還、核兵器を残したままの返還などだ。しかし、沖縄の復帰闘争は、こうした案を「県民無視」として、米国の長期異民族支配に対する「即時」、核付き条件に反対する「無条件」、宮古・八重山の分離論への「全面返還」を日米両政府に求めるスローガンが生まれたという。
 屋良氏は教育者で復帰運動のリーダーだった。一方、西銘氏は若く、東京大卒で保守陣営期待の星だった。宮城さんは「あの当時、東大卒は数人しかいない。沖縄は、若い優秀な人材が戦争でほとんど亡くなった。そんな時代ですからね」と説明する。
 選挙戦の裏側では、米側や本土の自民党が屋良氏の当選を警戒し、西銘氏に強烈なテコ入れをしていた。沖縄県公文書館所蔵の米公文書によると、沖縄自民党の吉元栄真副総裁は1968年8月、自民党の福田赳夫幹事長と面談。「72万ドルの資金提供」を受け取る確約を得たと記されている。
 投票率は89・11%に上り、結果として屋良氏が23万7643票を獲得して当選した。西銘氏は20万6209票、琉球独立を掲げた野底武彦氏は279票だった。
 宮城さんは敗因をこう分析している。「(屋良氏を支え、復帰運動の中心にいた)教職員会にやられた。30、40代が組織の中心で当時の力はすごかった」。
 こんな裏話も明かしてくれた。「(選挙戦が本格化する前に)相手陣営幹部がこっそり『今回は屋良氏が勝つ。西銘氏は出すな』と言ってきた。西銘氏への期待は、保革関係なくあった」

 ▽本土並み
 1969年3月、佐藤栄作首相は沖縄返還交渉に「核抜き・本土並み」で臨む方針を示す。11月に米側と「核抜き・本土並み」の返還に合意した。沖縄から核兵器を撤去し、日米安全保障条約に基づく事前協議制度を適用するという内容だ。しかし、米軍部の抵抗は強く、有事の際は沖縄への核再持ち込みを認める日米政府間の「密約」につながっていく。

 屋良主席は復帰前年の1971年、日本政府や国会に宛てた「建議書」を抱えて上京した。日本復帰後も巨大な基地が沖縄に残る状態を危惧したためだ。建議書では「多くの悲劇を経験している県民は基地のない平和な島としての復帰を望んでいる」とつづり、「平和憲法の下で基本的人権の保障を願望」している。

「辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議」の結成大会で手をつなぐ参加者=2015年12月14日、沖縄県宜野湾市

 予想どおり、復帰後も基地の縮小は進まなかった。米軍関連の事件・事故は続き、そのたびに保革は結集して抗議した。2014年には、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設に反対する「オール沖縄」が台頭。宮城さんは、保守と革新という立場を超えて団結した動きに「復帰運動の面影を見た」と振り返る。一方でこうも語る。「海を埋め立てられるのはつらいから、革新側の気持ちも理解できる。しかし、(辺野古に移さなければ)普天間飛行場の周辺住民は危ないままだ」
 沖縄は今年、復帰50年の節目を迎えた。基地負担は重く、1人当たり県民所得は全国最低だ。日本政府が沖縄の苦悩を受け止めているとは言いがたい。「全てを本土並みに」。宮城さんが代弁した沖縄の願いは、道半ばだ。(肩書は当時)

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