400年前の江戸時代、備後の地に築かれた福山城(広島・福山市)。改修工事を終え、いよいよ28日にリニューアル・オープンします。
【写真を見る】よみがえるシンボル 福山城の「ふしぎ発見」 28日リニューアル・オープン
しかし、この城について、みなさんはどれぐらいのことを知っていますか?
きょうのテーマは、数奇な運命をたどってきた福山市のシンボル・福山城の「ふしぎ発見!」。
3つのクイズを出しながら福山城を紹介しますので、ぜひ、みなさんも考えてみてください。それでは、さっそく最初のクエスチョンです。福山城ふしぎ発見!
江戸時代の1622年に築城された福山城。城を築いたのはこの人、初代 福山藩主を務めた武将・水野 勝成です。三河国(今の愛知県)の出身です。
この人、実は江戸幕府を開いたあの徳川 家康のいとこにあたります。
福山城博物館 皿海 弘樹 学芸員
「水野 勝成は、前半と後半で人物像が異なるんです。前半はまさに戦国武将です。あまたの戦に参戦しては一番槍をあげたりですね」
「鬼日向」の異名で恐れられ、猛将として知られた勝成は、「大坂の陣」などで戦果を挙げました。こうした活躍があって西日本の外様大名の見張り役「西国鎮衛」の重責を担い、福山に入りました。そして、10万石を与えられます。
当時の法律にあたる「武家諸法度」では新規の築城が禁じられていましたが、勝成は異例ともいえる福山城の築城を許されました。
福山城博物館 皿海 弘樹 学芸員
「10万石で入った城としては破格の大きさだったんですね」
「20を超える櫓と内堀・外堀2重のお堀を備えた、たいへん大きな城となっていました」
当時、福山の中心部は現在の神辺町で、鞆地区が海路を担う拠点となっていました。
勝成は、神辺と鞆の中間に破格の100万石クラスの城郭を築き、城下町を作っていったのです。
福山城博物館 皿海 弘樹 学芸員
「(水野 勝成は)後半、福山に移動してからは福山の街づくりを第一に考える領主になっていったと思います」
猛将だった反面、城下の人々に対する温情を持ち合わせていた勝成…。ここで最初のクエスチョンです!
Q.1 城下町を住みやすくしようと勝成が整備したものがあります。それは、後に「日本三大〇〇」と呼ばれるようになったものですが、さて、それは何でしょう?1. 上水道2. 物流・交通網3. 商店街
正解を福山城博物館の皿海 学芸員、お願いします。
福山城博物館 皿海 弘樹 学芸員
「井戸水の中に塩水が混じることがあったんですね。管を作って地中にはわせて、所どころ、水を取り入れるポイントを作って芦田川の真水を城下で使えるようにしていたんですね。まさに、今でいう上水道となっております」
正解は、上水道でした。
城や城下町は、干潟を埋め立てて作られました。井戸水には塩分が含まれていたため、生活に欠かせない水の確保が大事だったんです。
福山城シアターの “水野 勝成”
「あっぱれ! 福山はさらに栄えるじゃろう!」
勝成は、「江戸に負けない街づくり」を目指した藩主だったんです。
続いては、福山城最大の特徴についてクエスチョンです。福山城ふしぎ発見!
時代が明治になると、廃藩置県によって福山城は主を失います。その後、買い手が付かず、荒れ果てていきました。
福山市 歴史資料室 岡田彩さん
「荒廃が進むのを見た福山の人々が、有志として自分たちで保存をしていこうと、県から管理を取り戻して、公園保存会を作って保存したという流れになります」
福山城は、市民たちからの寄付金などで徐々に修復されていきました。昭和に入って吉報が届きます。
1931年に天守閣が、その2年後には伏見櫓や筋鉄御門が、国宝に指定されたのです。ところが…。
福山市 歴史資料室 岡田彩さん
「1945年8月8日の福山大空襲で天守閣が焼けてしまいました。残ったのが、今もある伏見櫓と筋鉄御門が焼け残ったということです」
戦後20年…、立ち上がったのは、またもや福山の市民でした。再び寄付金を集め、シンボルの復活を目指しました。
そして1966年、鉄筋コンクリート造りで内部を博物館とした天守が再建されたのです。
それでも福山城最大の特徴だった天守北側の鉄板張りは再建工事から省かれていました。
ここで2つめのクエスチョンです。
築城400年に向けた今回の改修工事「令和の大普請」で、その鉄板張りが往時の姿に復活することになりましたが、もともと鉄板が張られてあったのは、天守の北側だけでした。なぜ、鉄板張りは北側だけだったのでしょうか?1. 予算が不足していた2. 北側の防御が弱かった3. 鉄板が足りなかった
正解は、こちらです。
福山城博物館 皿海 弘樹 学芸員
「外堀りもずっと広がっているのですが、北側には山があって外堀りが途切れてしまっているんですね」
「これは地形的な問題があったといわれているのですが、北側はほとんど土地がありませんでした。お城自体の防御を高めるために天守閣の北側に鉄板を張っていたというわけなんですね」
正解は、防御面で北側が弱かったためでした。
山などからの砲撃から城を守るためだったそうで、鉄板張りの城は全国で福山城だけとされています。
最後は、リニューアルした施設の展示内容からクエスチョンです。福山城ふしぎ発見!
およそ2年に渡る改修工事を終えた福山城。
地下1階・地上5階建てで、内部は以前と同じ博物館仕様です。入口すぐそばには巨大なスクリーンが設置され、4階の3面シアターではゆかりの人物などを紹介しています。
福山城博物館 皿海 弘樹 学芸員
「このたびのリニューアル工事で体験型コンテンツを充実させたところは、たいへん大きな違いとなっております」
2階には、築城した水野家をテーマにしたコンテンツが並んでいます。
杉木 健那 記者
「水野 勝成のような戦国武将を体感できるアトラクションも用意されています」
勝成の「一番槍」をレース方式で模擬体験できます。それでは、ファイナルクエスチョンです。
こちらは、レプリカの火縄銃で的を射る体験型コンテンツです。
勝成は87歳のとき、火縄銃ではるか先にある的を射抜いたという記録が残されています。さて、何メートル先の的を射抜いたのでしょうか?1. 18メートル 2. 28メートル 3. 36メートル
正解は、こちらです。
福山城博物館 皿海 弘樹 学芸員
「晩年のころの話なんですが、打った的が現在も残っているわけなんですね」
「5月7日、20間とありますので、現在の距離で言いますと36mほどになりますので、36m先から打ち抜いたと。そして、まわりの人を驚かせたということが書いてあります」
正解は、36メートル。
ちなみに的の大きさは、縦・横わずか12センチほどだったということです。88歳で生涯を閉じる勝成は、老いてなお武芸の腕前は健在だったのです。
福山城は28日にリニューアル・オープンします。当面は事前予約制なので、詳しいことは福山城博物館のホームページで確認してみてください。