震災と台風 二度の災害を宮城・角田市の人たちと乗り越えた料理長 復興事業で北海道から移住

震災の復興事業をきっかけに北海道から宮城県角田市に移住し、道の駅の料理長に就任した男性です。震災と台風19号、二度の災害を地元の人と共に乗り越えた料理長の思いを取材しました。

道の駅かくだで人気を呼んでいる味噌ラーメン。5月から提供を始めた新メニューです。1日限定90杯。午前11時の販売開始から2時間足らずで完売するほどの人気ぶりです。
この味噌ラーメンを作っているのは、道の駅かくだの料理長、戸澤寛さん(55)。
道の駅かくだ料理長戸澤寛さん「札幌ラーメンを角田の人の舌に合うように、みんなの意見を聞いて作ったラーメンです」

道の駅かくだ 戸澤寛料理長

多くの人に愛される味噌ラーメンには、料理長と角田の人々の物語がありました。戸澤さんは札幌市出身。専門学校を卒業後、病院の調理師や飲食業などで働いていました。転機となったのは東日本大震災。
道の駅かくだ料理長戸澤寛さん「復興で角田に寮を借りたから、そこの寮で5年間ちょっとやってみないかって言われて。5年間って感じで、最初は本当に5年の出稼ぎで」

戸澤さんは、社長を務める建設会社の同級生から誘いを受け、復興事業に携わる社員の寮で調理人として働くことを決めました。角田市に来たのは2012年6月。
道の駅かくだ料理長戸澤寛さん「いやびっくりした。飛行機下りて飛行場から角田まで車で来た時、亘理の町とか家無いんだもん。5年じゃ(復興は)無理だなって思った」

5年の計画で進められていた復興工事。しかし、東京オリンピックの開催が決定すると、社員寮にいた約半分の作業員が復興工事の途中で東京に行くことになりました。
道の駅かくだ料理長戸澤寛さん「やっぱり復興より、オリンピックの方が優先なんだなと思ったよ、正直。向こうの方が単価良いから仕方ないもんね。止めることはできないし」

地元の人たちに頼まれラーメン作りを

収入も減り、札幌へ戻ることも頭をよぎった戸澤さん。そんな時に、札幌から来たんだから、札幌のラーメン作ってよと地元の人に頼まれたことをきっかけにラーメン作りを始めました。
社員寮が閉鎖された後の2016年7月、戸澤さんは味噌ラーメンが看板メニューのラーメン店、たら福をオープンしました。

たら福は、住民から愛される人気店へと成長しました。しかし、開店から3年。角田のまちを再び災害が襲います。店は床上30センチほど浸水。10日ほど休業を余儀なくされました。
道の駅かくだ料理長戸澤寛さん「あの時仲間いなかったら、(札幌に)帰ってたなぁと思ってる。自分で店をやって3年ぐらい経ってたから、こっちの飲食店の仲間とのつながりがすごい深くなってて、周りの一緒にやってる仲間たちとしゃべったり励ましてもらったり、いろいろ助けてもらったりして、水害の時も何軒か同じふうに水かぶった所があって。それで、その店主さんたちとしゃべってて、帰ってる場合じゃないなと」

東日本大震災、そして台風19号。2つの災害を地元の人と共に乗り越えた戸澤さん。地元への貢献が認められ道の駅の関係者から、道の駅かくだの料理長にならないかと打診されました。人気店を閉めることへの葛藤がありましたが、引き受けることに。4月、料理長に就任しました。
道の駅かくだ料理長戸澤寛さん「いつかは絶対でっかい店でやりたいとは思ってたの。10席か20席ぐらいのお店でやりたいなと思ってて、ここなら(道の駅)30席あるしな。お客さんはたくさん来るしな。設備もすごいしなとか思って。悪いことは何一つないしなって思って。ここでラーメンやれたら良いと思って道の駅で」

角田への思い

5月からは、たら福で人気だった味噌ラーメンの提供を始めました。角田市に移住して10年。第二のふるさと、角田への思い。
道の駅かくだ料理長戸澤寛さん「角田の老舗のお店の物が全部角田の道の駅の中には入ってるから、そういうものを買ってご飯食べてっていう、ほんとに人が集まる場所になってほしいなって思います。おいしかったって言ってもらえる、そこだけはおいしかったよって言ってくれるだけでそれだけです。本当に」

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