宇都宮に「謎」のロータリー ルーツは80年前…なぜできた?【動画】 【あなた発 とちぎ特命取材班】

「グーグルアース」の3D画像で南方向、上から見た「江曽島ロータリー」(c)Google

 編集局内で雑談していた時のことだ。「江曽島ロータリー、知ってる?」と話題になった。グーグルマップで見ると、道路につながった四角形のロータリーが住宅地にあり、その中にも家が建っている。なぜこんな場所が?「あなた発 とちぎ特命取材班」の記者が現地に向かった。

 ロータリーは東武江曽島駅から南東に車で約2分の場所だった。1周すると、200メートルほど。信号機はない。約500メートル北方向にアピタ宇都宮店、約1.5キロ南にカンセキスタジアムとちぎ。近くの人に尋ねると、朝夕は交通量が多くバスも走る。「JR宇都宮駅でタクシーに乗って『ロータリーまで』と伝えれば、ここまで連れてきてくれる」とも教えてもらった。

 なぜできたのか。宇都宮市役所に問い合わせた。市道であることは分かったが、整備の経緯ははっきりしない。

 手掛かりを求め、市中央図書館に足を運び、地元有志らが2009年に発行した「陽南三地区の歴史」を手に取った。そこには「1942年の中島飛行機の進出による道路整備、工場建設に伴う道路の分断で、陽南通りや江曽島ロータリーなどが造られた」とある。

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 日本最大の航空機会社だった中島飛行機。後の富士重工業を経て「SUBARU(スバル)」となった。

 戦時中、純農村だったこの地域の広大な土地に宇都宮製作所ができた。日本軍の主力戦闘機「疾風(はやて)」が生産されていた。

 今もスバル航空宇宙カンパニーの敷地は広いが、当時はもっと広大だった。工場敷地は東西が東京街道から東武宇都宮線近くまで、南北が陽南通りからJR日光線まであった。

 現在の陸上自衛隊北宇都宮駐屯地の飛行場はかつて、中島飛行機の飛行場。工場の南約1.6キロに位置していた。周辺に計約360万平方メートルもの土地が確保され、地域一帯が中島飛行機に大きく関わっていた。

 1947年に米軍が撮影した航空写真には、ロータリーが写っている。「陽南三地区の歴史」は「ロータリーを造った意味が不明となる」と記し、スバルに尋ねても真相は分からない。

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 「謎」を解き明かすため、近隣を尋ね歩いた。

 すると、ロータリーの中に住む元富士重工勤務の岡田米男(おかだよねお)さん(85)の話から光明が差した。「ロータリーの南北に続く緑が丘通りは飛行機を運ぶ道路。ロータリーは飛行機同士がすれ違うための場所だった」

 中島飛行機に勤め、陽南地区遺族会初代会長だった父の故英一(ひでかず)さんから聞かされた話だと言う。

 通常、工場で生産された飛行機は、専用の誘導路を人力で押して飛行場に運ばれた。「戦争が激しさを増してくると、飛行場の格納庫は爆撃で狙われやすくなる。だから、ロータリーの南にあった松林に飛行機を運んで隠した」。今、緑が丘小のある辺りだ。

 「工場と飛行機を隠した松林の中間地点がロータリー。工場に戻す飛行機もあるから、そこですれ違えるようにしたんだ」

 市教委発行の「うつのみやの空襲」に「飛行場の周辺には飛行機を敵機の攻撃から守るための施設『掩体壕(えんたいごう)』が造られた」とある。「陽南三地区の歴史」の編集長で近くに住む市文化財保護審議委員会委員の大嶽浩良(おおたけひろよし)さん(77)も「子どもの時に地元で掩体壕を見たことがある」と話す。

 江曽島ロータリーが戦争に関係しているとしたら。街の風景が少し違って見えてきた。

北東側から見たロータリー。朝夕は交通量が多く、バスも走る
1947年に米軍が撮影した「江曽島ロータリー」付近の写真(国土地理院蔵)。上が北でその方向に中島飛行機の工場があった(元の写真の一部を切り取っています)
「江曽島ロータリー」付近を調査する記者(左)。車両進入禁止などの道路標識がある
江曽島ロータリー付近の地図。陸上自衛隊北宇都宮駐屯地の飛行場はかつて、中島飛行機の飛行場だった。
北西側から見たロータリー

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