後世にまで伝えられるべき才能を今再び!薄幸のシンガーソングライター、ジュディ・シルが遺した2枚の名作

『Judee Sill』(‘71)、『Heart Food』('73)

前回、ジャニス・イアンを取り上げた際に70年代〜80年代にカリスマ的なシンガーがシーンを彩る一方で、多くの魅力的な女性シンガーが現れては消え…と書いた。そのあと、消えてしまったシンガーをあれこれ思い巡らせていると、忘れられない人が次々と浮かぶ。そのうちのひとりがジュディ・シルだった。

思い立ったら即聴くというわけで、彼女の2枚のアルバムを引っ張り出して聴いてみたのだ。これが、もう過去に何度も繰り返し聴いたアルバムなのに、恐ろしいほどの求心力で迫ってきて、初めて聴いた時のように感動してしまい、しばらく座った席から動けなかった。こんなことは珍しい。

その音楽は崇高な精神性、詩的な緊張感と空気感が張り詰め、彼女の透明感のある歌声、アコースティックギター、あるいはピアノの弾き語りというシンプルなサウンドと相まって、ひたすら美しい。その一方で、透徹したような音の響き、深い哀しみ、諦観のようなものを感じさせる声からは、この音楽がこの世のものでないような、触れてはいけないような危うさを感じてしまうのは私だけだろうか。聴いていて、感動する一方で、なんだか背筋が凍るのである。

ジュディ・シル(Judee Sill)は1944年10月7日 、カリフォルニア州ノース・ハリウッド出身。第二次世界大戦中のことだ。生きていれば78歳である。このところ何かと引き合いに出してしまうジョニ・ミッチェルが彼女より1歳上ということになるが、大病を乗り越えてジョニが今年、『ニューポートフォークフェスティバル』のステージに上がったのに対し、ジュディのほうは1979年11月23日にわずか35歳の短い生涯を閉じている。

伝わり聞く彼女の人生は破天荒そのもので、幼少期の劣悪な家庭環境(再婚した母親のパートナーの極度の飲酒癖からくる虐待)のもと、彼女は非行に走り、10代で家出をしてからさまざまな犯罪に手を染めている。麻薬、窃盗、強盗、売春…とまぁ、そんなところである。

それでも音楽的な才能が芽吹くのが、逮捕され服役していた監獄で、更生の一環として習ったピアノ演奏だったいう。もともと幼少時(まだ実父が事故死する以前の平和な頃)、彼女はピアノやギターを習っていたそうで、基本的な素養は身につけていたようだが、獄中で覚えたのはゴスペルの伴奏で、それに伴うコード理論だった。ちなみに獄中では制約があったとは思うが、どんな音楽を聴き、たとえばジョニ・ミッチェルがそうであったように、その時代に流行りだしたフォークミュージック、ボブ・ディランなどの刺激は受けてはいないのか? 残念ながらその種の話は伝わっていないが、たぶん聴く機会があり、こういうものなら自分でもやれるかもと思ったのではないか。実際には彼女はバッハを中心とした宗教/教会音楽に深く心酔していたのだという。その音楽的な志向はやがて生かされることになる。

何か自分の才能を生かすのなら、音楽表現かもしれないと彼女は思ったのだろう。出所後はソングライター・コンテストに応募し、いきなり優勝するという快挙をやってのける。が、ドラッグ中毒からはなかなか足が洗えず、ヘロイン購入のために身を売ったりと破滅的な生活からは抜けられない。あげくに詐欺事件に加担して逮捕され、再び獄中へと舞い戻る。こうした体験はますます自己憐憫、贖罪へと意識を向かわせ、彼女の詩作は宗教に救いを求めるようなものに傾倒していく。

アサイラムから レーベル第一号アーティストとして デビュー!

それでも次に出所すると、彼女は今度こそドラッグと手を切り、創作活動を再開する。その頃に書いた一曲がのちにファースト作に収められる「Lady-O」という美しい曲で、知り合いだったタートルズ(Happy Togetherの大ヒットやフランク・ザッパとの交流で知られる)のベーシストを通じてバンドに提供される。これがきっかけとなって、ジュディの名前は音楽関係者にも知られるようになる。中でも彼女の才能をいち早く見抜いたグラハム・ナッシュとデヴィッド・クロスビーはジュディを自分たちのツアーに帯同させ、オープニングアクトに起用する。経歴やパフォーマンスの評判は未知数であるにも関わらず、彼女はその独自の音楽性と肝の座った歌、演奏を披露し、次第に評判になっていく。そして、ナッシュの強力な後押しもあって、デヴィッド・ゲフィンが立ち上げたばかりの自身の新興レーベル、アサイラムとの契約を申し出、彼女は記念すべき、レーベル第一号アーティストとしてデビューすることになるのである。
※アサイラム・レコードはその後、ジャクソン・ブラウン、イーグルス、J.D.サウザーらを送り出すほか、リンダ・ロンシュタットやジョニ・ミッチェルを他レーベルから移籍させ、西海岸きってのレーベルとして成長する。

1stアルバム『Judee Sill』 の仕上がりは新人とは思えない見事なもので、高い評価を受ける。確かにクラシック音楽(バッハ等)の影響がうかがえる凝った楽曲のクオリティーは高く、それはその時代には似たようなスタイルがまず見つからない。贅沢にオーケストレーションを導入し、トラッドや誰からの影響もまったく感じさせない、独創的なフォークミュージックになっていた。グラハム・ナッシュもオルガンでサポートするほか、バックヴォーカルでリタ・クーリッジ、クラウディ・キングが協力している。

グラハム・ナッシュがプロデュースしたシングル「Jesus Was a Cross Maker」はラジオで頻繁にオンエアされるなど、滑り出しは上々だったものの、アルバムはその評判とは裏腹にヒットには至らない。

状況は分からないが、ジョニ・ミッチェルのあの名盤『Blue』が同年のジュディのアルバムに先駆けること3カ月前にリリースされ、世のシンガーソングライターへの注目はほぼジョニに集中していた。こちらのほうはビルボード・チャートで最高位15位、長きにわたって売れ続け、ゴールド、プラチナディスクを獲得している。
※この直後にジョニもまたアサイラムに移籍し、彼女らはレーベルメイトになるわけだが、互いに意識はしていたとは思うが、ふたりの間に親交があったかどうか、その情報はない。たぶん、なかっただろう。

眼鏡をかけ、知性的だけど神経質そうな雰囲気で、図書館や役所の窓口にでも座っていそうな雰囲気の女性だけれど、見栄え良くメイクして…という気もなさそうである。「前科者」みたいな負い目が彼女自身にあったのかどうかはわからない。ただ、人付き合いも苦手だったに違いない。ナッシュやクロスビー、ジョニらもいたローレルキャニオン住人の集まりやパーティに、自ら交わることはなかったと思う。ショービジネスそのものにさえ、単純に関心もなかったのかもしれない。いずれにしても、それまで「業界」に身を置いたこともなかった彼女はきっと要領よくスタッフと連携も取れなかったに違いない。

極論すれば、ひたすら独自の世界を描くジュディに、果たして自分の音楽を誰に聴いてもらいたい、それをどこに届けるのか、なんてことも考えていなかったのではないか。とにかく彼女は自分が納得できるまで曲を練り続ける人、つまり完璧主義者であったと言われている。スタジオ盤に記録された楽曲とライヴ録音されたバージョンがほとんど違わないことにも、そんなところが表れているような気がする。自己満足の音楽と言ってしまうと身も蓋もないが、そうだったのかもしれない。だが、それを打ち消し、これは万人に届くべき音楽だと拍手を送りたくなるほどに、素晴らしいものだ。

一曲仕上げるのに一年かけた、なんて逸話も残っているくらいだから、人前で演奏するなんて、よほど練習を積んでからでないと、やりたくなかったのではないか。実際、ファースト作を出したあとも、散発的にライヴを行なったようだが、コンサートツアーを行なった、キャンペーンを兼ねたクラブサーキットを行なったとも聞かない。きっとレーベルはレコードを売るためのアクションを促したはずだが、本人が頑なに拒んだという展開は大いに予想される。新人のくせに言うことをきかない、手を焼く、扱いにくいアーティストだったのではないか? 実際、ジュディとレーベル・オーナー、デヴィッド・ゲフィンとの間には次第に確執が生じるようになるのだ。

紛れもない名盤。 だが、悲運のうちに葬られたアルバム

1972年末になってようやくセカンド作のレコーディングが始まる。約一年かけて完成した『Heart food』(‘73)と題される2作目も、ジュディの才気煥発というべき、完璧な仕上がりで、彼女はパフォーマーであるだけでなく、オーケストラの指揮、アルバムの全曲のアレンジも自ら行なっている。音楽的にもより凝ったものになり、前作に続き、ヴォーカルの多重録音は高度なものになっている。たとえようもない美しい名曲「The Kiss」「The Vigilante」に聴かれるようなペダルスティールやバンジョー、フィドル、ハーモニカなどを加えるなどし、少しカントリー寄りになったアンサンブルもいい。「The Phoenix」、荘厳な「The Donor」ほか、このアルバムも月並みな曲がひとつもない。これが注目されなかったら、他の誰のアルバムならいいと言うのだと噛みつきたくなるのだが、これがどうしたことか、前作以上に無視されてしまうのだ。原因はアサイラムがアルバムのプロモーション、宣伝・広報活動を一切行なわなかったのだ。理由のひとつにはアルバム完成後のメディアのインタビューを受けたジュディがデヴィッド・ゲフィンがホモセクシュアルであることを暴露し、それに激怒したゲフィンの仕打ちだとされている。この話が本当だとして、当時、ゲイ、ホモセクシュアルであることが公になることがいかに大きな痛手だったとしても、それならアサイラムからアルバムリリースしないという手だってあったのではないか。真相は分からないが、とにかく2ndアルバム『Heart food』も傑作であるにもかかわらず、まったく売れなかったというか、リリースされたことさえ一般には知られていなかったという。そして、非情にもデヴィッド・ゲフィンはジュディをレーベルから解雇する。
※ゲフィンがゲイであることはジュディが言及する以前から周知の事実で、ニューヨークのゲイ・クラブで夜な夜な派手に遊ぶ様もメディアに取り上げられていた。とすると、ふたりの間の確執の理由は別にあるのではないだろうか?

その後、ジュディの消息はまったく聞かれなくなる。そして、1979年11月にコカインの過剰摂取で死亡するのである。

90年代以降の再評価、 今もリスペクトされ続ける存在に

その儚い生涯を思うとやり切れない気持ちにさせられるが、救われるのは、死後15年、20年たって彼女の再評価のチャンスが訪れたことだ。この才能を知れば、再評価は必然と思えるが、90年代に入ってささやかなアコースティック、フォークのブームが起こり、奇跡的に彼女のアルバムがCD化されて日の目をみた。それを機に世界中のシンガーソングライターから尊敬を集めるようになり、また、アバンギャルド、オルタナティブ、音響派と呼ばれるような一派からも彼女のサウンドは再評価され、中でもソニック・ユースのメンバーだったジム・オルークがジュディの死後に出た未発表音源集『Dream Come True』のリミックスを担当し、再発売された。また、ジュディの『Judee Sill』と『Heart food』が多くのデモ音源を加えて、2枚組CD『Asylum Years』としてリリースされるなど、生前とは比べものにならない評価をもって彼女の名前が広く知られるようになった。2007年には彼女の素晴らしいパフォーマンスを記録した『Live In London - the BBC Recordings 1972 - 1973』も発売されている。盛大な拍手を浴びているその時間、彼女も束の間の幸福を味わえただろうか。

TEXT:片山 明

アルバム『Judee Sill』

1971年発表作品

<収録曲>
01. Crayon Angles
02. The Phantom Cowboy
03. The Archetypal Man
04. The Lamb Ran Away With the Crown
05. Lady-O
06. Jesus Was a Crossmaker
07. Ridge Rider
08. My Man On Love
09. Lopin' Along Thru The Cosmos
10. Enchanted Sky Machines
11. Abracadabra

アルバム『Heart Food』

1973年発表作品

<収録曲>
01. There's A Rugged Road
02. The Kiss
03. The Pearl
04. Down Where the Valleys are Low
05. The Vigilante
06. Soldier of the Heart
07. The Phoenix
08. When the Bridegroom Comes
09. The Donor

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