「まずは風呂」「畳の手配を」原発事故で避難する福島県双葉町の1千人超を受け入れた知事と市長、その決断の舞台裏

旧騎西高の教室に敷き詰められた畳=2011年3月28日

 福島県双葉町は2011年3月の福島第1原発事故で、役場機能ごと町民が約200キロ離れた埼玉県東部に位置する加須市に身を寄せた。町そのものを他の県で受け入れるという判断を下したのは、当時の県知事と市長。部下を叱咤激励し、「避難所に畳を敷き詰めろ」「まずは風呂の準備だ」と指示を飛ばし続けた。「なにかあった時には自分が謝ればいい」。前例のない避難者支援の指揮を執ったトップ2人が、舞台裏を明かした。(共同通信=青柳絵梨子、大井みなみ)

▽寒かった3月、「とにかく暖かさを」
 埼玉県知事だった参院議員の上田清司(74)は「東日本大震災のあったあの冬は特に寒かった。自分は部下に、とにかく『暖かくしろ』と口やかましく言っていた」と苦笑交じりに振り返る。

取材に応じる参院議員の上田清司。埼玉県知事として、福島県双葉町の集団避難を受け入れた

 双葉町民は事故発生直後、さいたま市にあるさいたまスーパーアリーナに身を寄せた。大規模コンサートも開かれる施設だが、寝泊まりするために割り当てられたのは、決して広くはないアリーナの通路。1千人を越える町民が生活を送るには窮屈だった。アリーナでは4月から興行が再開されることになっており、さらに移転する先を探す必要があった。

旧県立騎西高校への移転の準備をする双葉町の避難住民ら=2011年3月30日、さいたまスーパーアリーナ

 当時はまだ余震が続いていた。上田は揺れにおびえ、窮屈な思いをしている双葉町民のため、頑丈で空間が広い高校を提供することを考えた。教育長に相談すると、すぐに加須市で空き校舎になっていた旧県立騎西高が浮上した。

▽1800枚の畳

 冷たいアリーナの床に段ボールを敷いて生活する町民からは、寒さを訴える声が上がっていた。上田は移転先の旧騎西高校で少しでも暖かく、落ち着けるようにと教室や体育館に畳を敷くことを提案。数百枚の畳の手配を指示したが、職員は「できない」と難色を示した。

双葉町民が避難した加須市の旧騎西高校=2012年8月

 上田は、寺の畳を一晩で入れ替えたとする「忠臣蔵」のエピソードを引き合いに、「堀部安兵衛は一晩で畳を用意したんだ。現代において、できないわけがない」と一喝し、「協同組合埼玉県畳協会」を通じて県内から中古の畳を集めた。町民が到着する前に約1800枚を敷き詰めた。地元住民も手を貸してくれた。
 寒い思いをさせない工夫は何でもした。知事として経験したことのない出来事の連続だったが、「地震に津波、原子力災害にまで遭った人々の、嫌な思いを少しでも減らしたかった。何かあったら全部、自分がごめんなさいと言うしかない。緊急時なんだから仕方ないでしょ」と話す。

▽着の身着のままの姿、今も鮮明に
 当時の埼玉県加須市長大橋良一(75)は、2011年3月末、旧騎西高校に着いたバスから降りた双葉町民が着の身着のままで、うちひしがれた姿だったことを今でも思い出す。

取材に応じる大橋良一。当時、埼玉県加須市長だった

 大橋は地震発生時、加須市の市長室にいた。室内の絵や額がものすごい勢いで揺れ、窓からは駐車場に止まっている車が揺れている様子が見えた。時間が経過するにつれ、各地の津波被害や福島第一原子力発電事故の状況がわかり始めたが、自分が町ごとの避難を受け入れることになるとは、想像もしていなかった。
 3月20日に「旧騎西高を避難所にしたいので協力をお願いしたい」と埼玉県から要請があった。「さいたまスーパーアリーナにも職員を派遣し、状況は分かっていた。受け入れるしかない。誰が市長でも同じ考えだったと思う」
 職員にも議会にも受け入れは事後報告だった。「市長が責任を取って動かないと職員も動けない」と判断し、1週間で準備を整えさせた。

▽「まずは風呂」笑顔取り戻すため支援

 バスを降りた双葉町民の表情からはこれまで居場所を転々としてきた苦労がにじんでいた。一方で、「しばらく滞在できる」という安堵のようなものも感じられた。

集団避難先の旧県立騎西高校に着いた双葉町の町民=2011年3月31日

 それまでの避難所には風呂がなかった。「到着したらまずはお湯につかってもらおう」と考えていた。到着したその日から、入浴施設までのバス送迎を準備した。
 子どもたちは市内の幼稚園や学校に受け入れ、ランドセルや勉強道具も準備。避難してきた双葉町民には農家が多く、農業を続けたい人のために土地を斡旋した。笑顔を取り戻してもらうための支援を考え続けた。「町民の姿を見ていると、こちらも必死になるしかなかった」
 異なる土地の人々を受け入れる加須市民へは、こまめな情報提供を心がけた。市民もボランティアなどで町民と接しており、理解を得られるとみていた。大橋には「行政と市民が一丸になれた」という自負が今もある。

▽双葉の地に帰るその日まで
 加須市の支援を総括した冊子の表紙には「元気な笑顔で双葉の地に帰るその日まで」と書かれている。大橋がことあるごとに口にしてきた言葉だ。2011年4月に約1400人いた旧騎西高への避難者は、13年9月ごろには100人を切った。高校の避難所は14年3月に閉鎖。ただ、市内には2022年8月の時点で、まだ約370人の町民が生活している。

全町避難が解消した福島県双葉町のJR双葉駅周辺。左上は役場の新庁舎。右下は建設中の町営住宅=8月21日

 大橋は今年4月に加須市長を退任した。避難当初から町民を見守り続けた市長の交代には不安の声も聞こえる。双葉町は8月30日、一部の地域への帰還が可能になった。大橋は「加須市として最後まで支援し続けることが必要だ」と力を込めた。(敬称略)

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