絶対に生還できない兵器、人間爆弾「桜花」の乗組員だった93歳 「死を覚悟した仲間たちの笑顔が頭から離れない」

1945年4月に撮影された、「桜花」をつるし鹿屋基地を飛び立つ一式陸上攻撃機(鹿屋航空基地史料館提供)

 戦局が悪化した太平洋戦争末期、日本軍は無謀な作戦を敢行した。その一つが、大型爆弾に翼と操縦席を付けた「桜花」と呼ばれる兵器による特攻だ。10代半ばの若さで隊員となった横浜市の浅野昭典さん(93)。そもそも生還を想定していない“人間爆弾”で出撃していく仲間を何人も見送った。「おまえも後から来いよ」「すぐ行きます」。そんなやりとりを繰り返したが、自らの出陣はないまま終戦を迎えた。それから77年。死を覚悟した仲間たちのまだあどけない笑顔が脳裏に焼き付いている。(共同通信=大倉たから)

 ▽怖くなどなかった
 

 横浜市で生まれ育った浅野さん。世の中が軍国主義一色に染まる中、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)に憧れ、14歳だった1943年、海軍の飛行兵に志願し入隊した。同期は年上ばかりだった。小柄だったため飛行機のペダルを踏むのも難しかったが、必死で訓練にくらいついた。
 

訓練の合間にカメラ好きの仲間が撮影してくれた浅野さんの写真=1945年春ごろ茨城県の神之池基地(本人提供)

 1945年1月ごろ、上官に特攻部隊を希望するかと聞かれた。「国のために死ぬのは当然のことと考えていたからね。怖くなどなかった」。渡された用紙に、「熱望」を意味する二重丸を書いて提出。念願かなって特攻を専門とする「神雷部隊」の一員となった。
 人間爆弾といわれた「桜花」を初めて目にしたのは、茨城県の神之池基地だった。海軍が開発した特殊な〝滑空機〟。前部に大型の爆弾を装着するという全長約6メートルの機体に、翼と1人乗りの操縦席が付いていた。「これが、おまえたちが乗る飛行機だ」と上官。「ああ、これで出撃するんだな」と思ったが、この時はまだよく分かっていなかった。
 母機となる一式陸上攻撃機につるされて敵艦近くまで移動した後に分離され、ロケット噴射や滑空をしながら突撃する―。先輩たちの話を聞き、次第に自らに課せられた任務を理解していった。生きて戻ることを前提としていないためエンジンはなく、着陸用の車輪もついていなかった。

 ▽危険な訓練、命落とす仲間も
 それからは訓練の毎日を過ごした。ゼロ戦を使って急降下を繰り返したが、一度だけ桜花にそりをつけて目標地点に着陸する訓練があった。爆弾は積んでいなかったものの極めて困難な内容で、命を落とす恐れもある。「死んでも恥ずかしくないように」と新しい下着で臨んだ。

鹿屋航空基地史料館に展示されている、一式陸上攻撃機につるされた桜花の模型=鹿児島県鹿屋市(同史料館提供)

 まず母機の一式陸上攻撃機で高度約3千メートルの上空へ向かう。それからハッチを開いて、はしご伝いに桜花に乗り移らなければならない。強風が吹き荒れる中、桜花の操縦席にある風防につま先をつくのがやっとだったが、何とか乗り込むことができた。
 

1945年4月ごろ、家族に残すための写真に納まる浅野昭典さん=茨城県の神之池基地(本人提供)

 その後、母機から分離されると直後は猛烈な勢いで顔もあげられなかった。それでも操縦かんを握りしめ、無事に着陸できた。これでようやく一人前だと誇らしく、訓練を終えた記念として基地に来た写真屋さんに家族に残す写真を撮ってもらった。遺影になるんだからかっこよく写ろうと、すまし顔で腕を組むポーズを取った。
 訓練で犠牲になった隊員もいた。仲間の一人は、上空で母機から切り離されるタイミングが合わず、防風林に突っ込んで死亡した。ある同期は操縦かんを動かすことができず、何もできないまま海に墜落したと別の同僚に聞かされた。飛行機の乗り方を一から教えてくれた「長野」という少尉は、いつも優しくみんなの憧れだったが、改良試験中の桜花から空中に放り出されて命を落とした。

 ▽別れの酒に付きあってほしい
 一方で、毎日のように出撃拠点である鹿児島県の鹿屋基地に仲間が送られていった。「俺、明日行ってくるよ」。夕方の食堂で誰かが報告すると決まって宴会が始まった。「別れの酒に付き合ってほしい」と言われ、飲めない焼酎をシロップで割って口にした。肩を組み笑顔で軍歌を歌った。出撃は死を意味すると分かっていたが、誰も難しい話はしない。「頑張ってください」「浅野もな」。そんな会話を繰り返し、和気あいあいと最後の時間を過ごした。「おまえも後から来いよ」と言われるたび、「はい、すぐ行きます」と答え、自分も彼らに続くんだと決意を新たにした。
 

訓練のため、広い神之池基地内を自転車で移動する浅野さん=1945年春ごろ(本人提供)

 7月に入ると燃料が不足し、代用となる「松根油」をつくるために松の根を掘る任務が新たに加わった。その後、間もなく始まるといわれた「本土決戦」に備え、滋賀県の比叡山へと移動した。山頂近くに設置されたカタパルト(射出機)から桜花を発射する作戦の準備が進められていた。詳しい説明はなかったが、大阪湾に来る敵艦を攻撃するんだと覚悟を決め、出撃命令を待った。
 8月15日、重大発表があると伝えられ整列した。ラジオからは「ガーガーガー」という雑音しか聞こえなかったが、上官から敗戦を知らされた。力が抜けてしまい、数日の間ぼうぜんとした。「向こうで会おう」という仲間との約束は果たせず、悔いも残った。

 ▽平和のために歴史伝える
 実は仲間の多くは敵艦にたどり着くこともできずに死んでいた。その事実を知ったのは終戦後何年もたってからだった。鹿屋航空基地史料館(鹿児島県鹿屋市)によると、45年3月以降、出撃した桜花は55機。そのうち1機が米軍の駆逐艦1隻を沈没させたものの、発射前に母機とともに撃墜されたものも多かった。一式陸上攻撃機51機、ゼロ戦10機も帰還できず、桜花の乗組員を含め少なくとも計430人が亡くなっていた。
 「後から行く」と仲間に言っていたのに生き残ってしまった―。そんな思いを消すことができない中、自分の使命は何なのかと考え続けた。たどり着いたのは「平和のために歴史を伝えることが彼らへの供養にもなる」という思いだ。家族を持ち、運送や貿易の仕事をして必死に暮らしながら、自身が所有する桜花の記録を資料館などに提供してきた。

手作りした「桜花」の模型を手に当時を振り返る浅野昭典さん=7月、横浜市

  「当時は切り捨てていた感情だけど、死んでいった仲間たちは本当は怖かっただろうな。無謀な作戦だったんだね」。長い歳月を経た今、過酷な任務をこう振り返る。
 90歳を超えて歩けなくなり、自宅の一室で過ごす日々だ。部屋には当時の写真や、自身でつくった桜花の模型が飾られている。この夏、写真の中で笑う仲間たちに「この77年間、日本では戦争はなかったよ」と語りかけた。
 戦争を知る人たちが次々に世を去り、「体験の継承」が大きな課題となっている。「今の若者にどんなに説明しても、私たちの経験やあの時の気持ちはもう分かってもらえないかもしれないなあ…。それでも戦争はしないで。望みはただただそれだけです」。浅野さんは強い口調で話した。

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