首里城から振った旗、4キロ先の天久で見える? 琉球王朝時代の“通信”を再現 那覇で市民向け歴史講座

 【那覇】琉球王国時代、首里王府は沖縄本島各地に設置したヒータチ(火立て)や旗を使って通信していた。首里城から振った旗は、当時処刑場のあった那覇市安謝の恵比寿神社周辺でどのように見えたのか―。旗の見え方や有用性を検証しようと8月21日、市民向け歴史講座「浮島講座『那覇に学ぶ』」(主催・アポロブルー)が郷土史家の古塚達朗さんを招き、首里城の広福門前広場と那覇市天久の琉球新報天久ビル屋上で実験した。

 午前10時半ごろ、首里城の広福門前広場「高アザナ」で縦2.4メートル、横3.4メートルと、それより一回り小さい縦1.2メートル、横2.4メートルのベンガラ(赤茶)色の旗が振られた。

 琉球新報天久ビル屋上では、市民ら約10人が直線距離で約4キロ先の方向を見守った。「見えた」。あちこちで歓声が上がった。遠くで左右に振られる赤茶色の旗が肉眼で確認できた。

 続いて高アザナから太陽の光を鏡に反射させ、ビルの屋上で光が見えるかを実験。鏡の動きに合わせてキラキラ光る光線が遠目にもはっきりと見えた。ビルからも同様に鏡を使い、高アザナに向けて光が見えたことを合図した。参加者の一人、饒波正博さんは「訓練すればかなりの情報を届けられる気がした」と話した。

 実は16世紀ごろ、旗を使った通信で誤解が生じ、首里王府に仕えた易学者が処刑された。木田大時(むくたうふとぅち)は易学で尚真王の息子の命を救い、王に寵愛(ちょうあい)されていた。それをねたんだ王の側近は箱の中にネズミを1匹仕込み、力試しで木田に数を言い当てさせる。5匹(3匹説もある)と答えた木田は偽り者とみなされ、処刑場に送られる。

 直後に箱の中でネズミが4匹の子を産んでいたことが分かり、王は処刑中止を命じる旗を振らせた。だが処刑場の役人は実行の合図だと勘違いし、木田を処刑。王の命で木田の石厨子は玉陵の中室に安置されたという。

 古塚さんが旗を使って検証するのは初めて。「史料はないが、玉陵の中にいる木田大時の話が現実味を帯びた気がする」と感慨深そうに語った。

 (比嘉璃子)

© 株式会社琉球新報社