政界引退の金子原二郎氏(78)が語る 47年間振り返り「悔いなし」

約半世紀にわたる政治活動を振り返る金子氏=長崎市内の事務所

 1975年の長崎県議初当選を皮切りに衆院議員を5期、知事を3期、参院議員を2期務めた前農相の金子原二郎氏(78)が今夏、政界を引退した。47年間の政治活動を振り返ってもらった。

 -現在の心境は。
 ここまで続けられたのは多くの県民や支援者のおかげ。自分なりに精いっぱい取り組み、ある程度のことは成し遂げられたと思う。悔いはない。

 -政治家を志したのは。
 父(岩三氏)が政治家だったので、心の片隅に「いずれは政治家に」との思いがあったかもしれないが、大学卒業後もしばらくは政治と一定距離を置いていた。72年ごろ東京から長崎に戻り民間で働きながら青年活動、地域活動に取り組んだ。その中で政治家を志すようになった。
 その原点は小学校まで暮らした生月島にある。道路整備の遅れ、限られた交通手段、急患対応の大変さなど離島の生活の厳しさを体感した。本当に困っている人たちに手を差し伸べるのが行政の役割で、「もっと暮らしやすい古里にしたい」との思いだった。
 県議選に出馬する時は、いずれは父と同じ衆院議員になりたいと考えていた。より良い長崎県にする政策を国の中で取り上げてもらわなければならない。83年12月、現職の農相だった父の後継として衆院議員に立候補し初当選した。

 -岩三氏はどのような存在だったか。
 父が誠実な政治姿勢を貫いてきたから今の私があると思う。「金子岩三は素晴らしい」という評価を周囲から受けており、そんな父が誇りだった。その評価を汚してはならないと絶えず心がけてきた。父と同じような道を歩んできており、私の原点は父の政治姿勢にあるんじゃないかな。

 -約半世紀にわたる政治活動で特に印象に残っていることは。
 たくさんの思い出の中から特筆するのは難しいが、知事は最終責任を負わねばならず、その分だけ思い出は強い。国営諫早湾干拓事業、九州新幹線長崎ルートの整備促進、石木ダム建設は歴代知事の引継事業。どう仕上げるのかが大事だった。
 諫干は2000年末ごろ養殖ノリの不作問題が発生して漁民から反対の声が高まり、国と交渉しながら事業を遂行するのは本当に苦労した。新幹線も岐路に立たされた時期があったが絶えず佐賀県知事とコミュニケーションを取り、より良い方向に進めようとした。
 03年には県住宅供給公社が事実上経営破綻し、金融機関などに債務免除を求める特定調停を申請。当時の副知事は銀行頭取にひどく怒られた。他にも県立病院の民営化、県出資団体見直し、(長年の悪習だった)裏金問題の整理…。文化事業にも力を入れ県美術館などを整備した。知事時代は絶えず問題が起き、改革に取り組んだ3期12年だった。

 -知事退任後の10年、参院議員に初当選した。
 国と県のパイプ役として県内全体の道路網整備などに尽力した。昨年秋の岸田内閣発足に伴い父も務めた農相に就任し、感慨深かった。コロナ禍で需要が落ち込んだ牛乳の消費拡大や、肥料、飼料などの価格高騰対策などに取り組んだ。まさか親子2代で農相になり、いずれも現職の時に辞めるとは思わなかった。大臣の権限は大きかったが、いかに法案を通すか大変だった。

 -ここ数年の県政をどう見ているか。
 精いっぱい努力していると思うが、長崎県は離島を多く抱えており、人口減少を食い止めるのは難しい。離島の産業の核だった水産業は資源が枯渇して厳しい。半島も含め企業誘致も簡単ではない。交流人口拡大のポイントとなる観光もコロナ禍で大打撃を受けている。アフターコロナに向け準備をする必要がある。新しい(大石賢吾)知事が前県政の良い点を引き継ぎ、人工知能(AI)の活用など新しいことに取り組んでほしい。ただ華やかなものばかりに飛びつくのではなく、地道な事業を一つずつ積み上げなければならない。

 -今後の政治活動は。
 相談を受ければ助言や協力をしていきたい。その場合も周囲に迷惑をかけないようにしたい。健康のため趣味のゴルフを再開しようと思う。これまでほとんどできなかった国内旅行にも妻と一緒に出かけようかな。


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