【読書亡羊】「安倍を鳥葬にしろ」と蔑んだ町山智浩さんにおすすめの一冊 ジュリエット・カズ著、吉田良子訳『葬儀!』(柏書房) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする週末書評!

「無宗教の葬儀」とは?

まもなく安倍元総理の国葬(国葬儀)が日本武道館で行われるが、論点になっていないものの一つに、そのスタイルがある。報道によれば「無宗教形式で、簡素・厳粛に」行う、とのことだが、葬儀と言いながら「無宗教スタイル」とはどういうことなのか。

国教がなく政教分離が原則の日本だから仕方がないともいえるのかもしれないが、ならばそれは「国葬」ではなく「国主催のお別れ会」とでも呼ぶべきなのではないか。

そんな思いを強くしたのは、今回ご紹介するジュリエット・カズ『葬儀!』(柏書房)を読んだからでもある。本来、葬儀、人を弔う行為というのは極めて宗教的な意味合いを持つ。本書は世界各地のさまざまな葬儀の形を13事例、取り上げているが、「弔意を求めない」「無宗教」「簡素」に行うことがよしとされているような葬儀はない。

例えばインドネシアのトラジャ族は、一人の人間の葬儀に〈数年間かけて、数千人を招待することも〉あるという。その間、「死者」はミイラ状態にされて訪問客に会い続け、家族は「病人」として遺体を扱う。

単に「死ぬ」だけのことなのに、葬儀には莫大な資金がかかるという。葬儀では、死者が黄泉の国へたどり着くまでの乗り物となる水牛など動物の生贄が捧げられなければならず、しかもそれが多いほど道中が安全になると信じられている。だから必死で資金を集めるのだが、時には隣人(ミイラ)をコレクターに売って生贄資金を稼ぐ不届きものもいるというのだ。

死者の弔い方にもプライドが

あるいはメキシコの「死者の日」。毎年10月31日から3日間行われる大々的な行事で、ドクロメイクを施した人々がド派手な格好で街を練り歩くために観光客からも人気があり、映画などでも登場し有名になった。

だがあくまでもこれは死者のためのイベントで、一日目は死んだ子供、二日目は成人の死者、三日目は事故や事件で命を落とした人を悼む。このように死者を分けることはキリスト教の総本山・バチカンからは認められていないというが、メキシコ側は意に介していない。死者によって日を分けなければならない、アステカ神話から受け継がれた由来があり、信仰が独自の進化を遂げたことの証でもある。

死者をどう扱うか、どう弔うのかは、宗教はもちろん、その土地ごとの文化や文明が色濃く反映されているのだ。自身の習俗への誇りも当然あり、だからこそ本書も「死者の日をハロウィンと絶対に混同しないこと!」と但し書きを入れている。

「鳥葬」の意味を知っていますか

ツイッター上では映画評論家の町山智浩氏が「安倍を国葬にするなら鳥葬で手を打とう」という主旨の書き込みをして非難を浴びた。明らかに否定的な意味で鳥葬を持ち出したからだ。

本書でも鳥葬はチベットの伝統的な弔いのあり方として紹介されている。最新の研究では一万年以上前から行われていたという鳥葬が、いつ頃からチベットで始まったか定かではないが、チベット人にとっては重要な文化であり、習俗であり、宗教的儀式だ。

鳥葬は単に遺体を野ざらしにして鳥(ハゲワシ)についばませるのではなく、専門の鳥葬師が手順に則って遺体を切断し、その肉片とチベットの主食である大豆を炒った粉を混ぜ合わせるのだという。

〈最後に我が身を自然に捧げることで、死者は完全にこの世を離れて転生する〉という神聖な意味を持つにもかかわらず、珍しいもの、えぐいもの見たさの観光客の好機の目にさらされても来た。現在、鳥葬の現場にはチベット人以外は近寄れないようにしているという。

他者の文化、弔いの形への理解が足りないと、人を貶めるために「鳥葬」を持ち出すという愚かな行動に至ってしまう。「安倍元総理に、再びこの世に転生してほしい」と思ったわけではないだろうから、ぜひ町山氏には本書を読んでもらいたい。

ちなみに「鳥葬」は「天葬」とも呼ばれているという。

「故人ロボ」に人は感動するのか

本書には日本の事例も紹介されている。もちろん「四十九日」や「湯灌」など、なじみのある説明はあるのだが、それと合わせて葬儀とテクノロジーとの融合事例が取り上げられている。

例えば「デジタルシャーマンプロジェクト」。「故人」となってから四十九日間、故人の顔や口調を覚えさせたロボットが稼働し続け、死者の魂を感じさせるのだという。本書によればこのプロジェクトがヨーロッパで紹介された時、〈あまり共感は得られませんでした〉とのことだが、日本人でも共感する人は少ないのではないか。

しかし一方で、東日本大震災後に設置された「風の電話」は大きな反響を呼んだ。「震災で亡くなった死者と電話をして悲しみを癒す」という試みを、実に25000人以上が実施したという。

「日本の弔い方」を見せてやれ

日本では近年、葬式の簡素化や墓じまいなどが話題になり続けてきた。「死んだらおしまいなのだから、旅立ちの儀式である葬式や、その後の墓にお金や神経を使う必要はない」ということなのだろう。

「金がもったいない」というデフレマインドもある。かつてのように、「死者が悲しむ」とか「怨念となる」というような、畏れの気持ちも消失しつつあり、お盆という習慣も単に「大型連休」程度の扱いになっている。

これも近代化・現代化の一つの現象だと言われればそうなのかもしれないが、本書を読むと、盛大に死者をあの世に送り出したり、年に一度戻ってくる魂を温かく迎えたりする宗教や習俗がある方が、「安心して死ねる」ようにも思う。

もちろん安倍元総理の「葬儀」はすでに家族葬の形で終了しているので、国葬がどんな形であろうとご本人の魂の行く先にはあまり関係がなさそうだ。しかし世界から弔問客が来るのなら、ある程度のコストがかかっても「日本の弔いというのはこういう形なのだ」というものを見せてもいいように思う。

それでも宗教色を排すというなら、いっそ、日本の技術力・テクノロジー面を強調し、「ホログラム安倍晋三」を出現させ、参列者を出迎えたらどうかとさえ思うのだ。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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