不戦・和平の道は有ったのか?(後) カトリック修道士 小崎登明

現在の裕福な時代に、考えるべき憂い

例えば、現在の日本人の生活は、殆ど外国に資源や物資を頼んでいる。さまざまな物資、食べ物の材料にしても、機械、石油、ゴムなど、多くの輸入製品で日本人の生活は支えられ、私たちは「のうのう」と生活を営んでいる。

ところが、もし何らかの異変が起きて、アメリカからも、他の外国からも、アジアの諸国からも全く物資が届かない状態になったとしたら、日本人は如何に生きるであろうか。そのとき、どのような解決策の選択が自国で見つけられるであろうか。甘さ、楽しさ、豊かさを知り尽くした今の日本人に、生活の貧しさ、不便さが辛抱出来るであろうか。果たして困窮に耐えられるか。解決の道は、どこにあるのか。

それと同じく「あの時」に解決の道は何処に有ったのか――と言うことが。

昭和十年頃から十五、六年、つまり私の少年時代の日本が、まさに、その状態であったと思う。

東北の新聞に、その答えが見つかった

1999年の夏休みに、私が、東北を旅行したとき、現地の知人の主婦から、「東奥日報」の夕刊を渡された。それは1999年8月20日の新聞であった。その一面に、「青森、20世紀の群像」とあり、佐藤尚武(さとうなおたけ=1883~1971)の、十段抜きの特集が掲載されていた。

佐藤は、戦前、ポーランド公使を勤めた経歴がある。ポーランド国に興味を持っている私に、知人の主婦は、この新聞を示したようであった。私はその記事を読んだとき佐藤の信条に心を打たれた。私は「整理のつかない戦争論」を抱えているが、佐藤尚武がその答えを解く人物のように思われた。戦争に反対し、平和を願った政治家が日本にも居たのである。

佐藤尚武は戦争直前に叫んでいる。

「戦争を欲するならば、その危機は何時でも参ります。これに反して、日本は危機を欲しない、そういう危機は全然避けて行きたいという気持ちであるならば、私は日本の考え一つで、その危機は何時でも避けられると確信いたします」

昭和十二年三月、外務大臣に就任したときの、彼の発言である。

この時点で、彼の願いは、四つあった。

(一)  いずれの国とも戦争を避けて平和を守り国際協調主義を貫くこと。

(二)  中国に対しては平等の立場で平和交渉をおこない国交を調節すること。

(三)  対ソビエト関係も平和を維持しながら友好的に解決すること。

(四)  当時、悪化していたイギリスの関係を友好的に改め国交を建て直すこと。

以上であった。

軍国主義の強かった時代に、思い切った平和外交を唱えた佐藤尚武の決意に、国民は驚きと共に安堵の目をもって見守ったという。一方、強硬論者からは軟弱外交と批難されたが、佐藤尚武はあくまでも自説を曲げなかった。しかし佐藤の外務大臣職は、たった三カ月で終わり日中戦争に突入する。

更に日本は米英と太平洋戦争を始めた。

戦争中、佐藤は駐ソ大使としてモスクワに居た。昭和二十年六月、七月に、佐藤は「帝国に抗戦の余力有りや、幾十万、幾百万の無享の都市住民を犠牲にして尚、抗戦の意義ありや」と日本政府に「早く戦争を止めるように」電報を打っている。しかし政府は国体維持にこだわり、遂に原爆投下となった。

佐藤の「早く戦争を止めるように」の電報は、アメリカによって傍受され解読されていた。戦後、バーンズ国務長官は著書「率直に語る」の中で、佐藤を「勇敢な代表」とした上で、「もし日本が佐藤に耳を傾け、無条件的に降伏していたならば、原子爆弾を投下する必要はなかったであろう」と書いている。

この新聞記事を書いた記者の名前が、文の最後に銘記してあった。

私は青森空港から、その記者に電話をかけて聞いた。「あなたが記事にした佐藤尚武は立派な日本人です。しかし佐藤は、物資のない貧困の日本を、国の狭い日本を、どのように解決するビジョンを持っていたのですか」。記者の返答は「そこまでは調べていない」だった。

それ以後、私の興味は、これが、きっかけで佐藤尚武に向かった。

佐藤尚武の「回顧談」を探す

昭和三十八年四月、佐藤尚武は時事通信社から「回顧八十年」を出版した。私は東京へ出たついでに、国会図書館で、その本を探し出した。おそらく今となっては佐藤は過去の人であり、彼の著者など調べる者は居ないだろう。私は著者名から、分厚い著書を手にしたときは感慨深いものがあった。本の図書番号は「289.1Sa843k」である。

「林内閣の外務大臣時代」の章に、例の「四点の方針」は直ぐに目についた。佐藤は「根本問題として、日本は極力いずれの国とも戦争を避けて、平和裏に国際関係を律していく。前大戦の結果から見て、戦争はぜひとも回避しなければならぬばかりでなく、連盟脱退後の日本として平和を維持していくことが絶対必要である」との考えを持っていた。

議会に臨んだ佐藤は当然、「いずれの国とも衝突を避け、平和的談判をもって国交を調節していく考え」を強調している。「いやしくも一国の運命を導いてゆく議会として、政治家として、かくの如き国民を脅かし、おののかしめ、情勢を危殆ならしむる意図をもって、国際情勢を危機に陥らしめることは極めて危険な話であり、無責任きわまると痛感している。外務大臣としては断固反対の態度をとり、かくの如き傾向を矯正すべき強い反感を持っている」とさえ言い切った。

これに対して議会では一部からヤジが飛んだが、「しかし議会全体としては、私の演説を思いがけなくも盛んな拍手で迎えた。このことは私にとって実際、意外であった」と佐藤は記している。

しかし日本は戦争を回避出来なかった。佐藤の力説も虚しかった。

私は項をめくりながら、佐藤の言う政治面からではなく、庶民の生活面から日本を豊かにする方法を考えていなかったか、佐藤にその具体策は有ったのか、探してみたが、残念ながら私の目には具体案はとまらなかった。戦争に反対し続けた外交官も、国民を説得させ得る方策は胸中に無かったのであろうか。

佐藤尚武は1971年、昭和四十六年、八十九歳で逝去した。

その後、「石橋湛山」(1884~1973)の評論集などを手にした。日本が戦争へと傾いて行くなかで、独り軍部に批判を続けた男である。

 

小崎登明「平和の語り部」(自費出版2002年)より

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