戦後復興の行事を再現 広島の繁華街を練り歩き 「広島大仏」 湖底にある集落の記憶

10日、広島市中区の本通り商店街に大きな大仏が姿を現しました。広島の戦後復興を見守り、およそ70年ぶりに里帰りしている「広島大仏」です。

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この日、100人以上が参加したこの練り歩きは、戦後まもなく、本通りで行われた復興パレードを再現したものです。

広島大仏は、原爆ドーム近くの寺で市民に親しまれていましたが、戦後の混乱の末、およそ70年前から行方がわからなくなっていました。

奈良県の極楽寺の住職が、自分の寺にある阿弥陀如来像が「広島大仏」だと突き止め、ことし6月、ふるさと広島への里帰りが実現しました。

奈良 極楽寺 田中 全義 住職
「67年前にこの地をパレードした大仏、それを支えた本通り会の方がたとなにか重なるような風景でした」

週末の繁華街、多くの人が、この広島大仏の練り歩きをスマホで写真におさめていました。

広島大仏は、12日から宮島の大聖院でお披露目されています。そのルーツは、今はダムに沈んだ県北の集落にありました。この集落のあとをたどりました。

原爆ドーム前を進む仏像…。「広島大仏」です。奈良県の極楽寺に安置されている阿弥陀如来像で、7月から県内でお披露目されています。

広島大仏は、終戦後、原爆ドームそばの寺に安置されていました。ただ、1960年ころ、所有権をめぐる争いの末に行方不明に。11年前、奈良県の極楽寺の田中 全義 住職が、自分の寺にある阿弥陀如来像が「広島大仏」だと突き止めました。

クラウドファンディングで資金を集めるなどして、およそ70年ぶりにふるさとの地へ里帰りを果たしたのです。

原爆が投下されてからまだ間もない当時、広島大仏は、市民の “心のよりどころ” とされていました。被爆者の 梶本 淑子 さん(91)は、戦後、本通りの洋服店で働いていたころ、仕事の帰りや配達の途中に広島大仏のもとへ足を運んだといいます。

被爆者 梶本 淑子 さん
「家に帰っても父ちゃんも母ちゃんもいないし。ここに来れば、何か落ち着くとか、優しくなれるのは、お父ちゃんに会いたい気持ちが半分あったんじゃないかなという気がします。似てる感じがするんよね、申し訳ないけど」

1950年の復興パレードでも広島大仏は本通りを練り歩きました。

戦前から本通りに住む 奥本 博 さん(92)は、当時、その様子を自宅前から見ていました。

奥本 博 さん
「店の並びもこんなに華やかじゃなかったですが、それなりににぎやかな行列だった記憶があります」

戦後の復興の一部として人々の記憶に残る広島大仏。そのルーツは、県北にあります。

標高およそ700メートル、北広島町 八幡高原の南にある樽床ダムです。ここには、かつて、集落がありました。

ダムが建設される前の集落の様子を撮影した映像です。豪雪地帯の樽床には、かやぶき屋根の家が立ち並びます。集落にはおよそ70世帯の住民が暮らしていました。

聖湖のほとりでは実際に住居だった家や使っていた農具を展示して、地区に古くから残ってきた生活様式を紹介しています。

「お久しぶりで…。もう何年ぶりかな、5年ぶりくらい」

広島市に住む 福田 季弘 さん(90)と 清水 重雄 さん(87)は、今は聖湖の底に沈んだ樽床地区の住人でした。

樽床は農林業が盛んで、住民の多くが米や野菜の農家でした。

福田 季弘 さん
「昔の百姓は楽じゃなかったですよ。機械でやるんじゃなしに牛の尻たたいて…。魚とか肉とかいうのはなかったですが、あとのものは自給自足で、終戦当時もそんなにお腹が空いているいうこともないし」

樽床での暮らしは「1つの家族のようだった」と振り返ります。

福田 季弘 さん
「鎌なんかでけがをしたときに足を切らずに草刈りゃええのにと笑いよった。直接、本人に向けて言うんだから。でも、言われた者もどうもない。いっしょにガハハと笑う、そういうところがあったですよ」

近くにある三段峡は景勝地として知られ、集落の宿「峡北館」は多くの宿泊客でにぎわいました。

ここに1926年、「三段峡を守る仏にしよう」と一部の住民が資金を出し合って大仏を招いたのです。

当時は、「三段峡大仏」と呼ばれ、およそ20年の間、住民らを見守りました。

峡北館の宿帳には、大仏を「天下の名作」と書き残した宿泊者もいます。

しかし、戦後、今度は広島市の人物が、「平和公園の本尊にしたい」と大仏を求めます。そのころ、樽床地区の財政が厳しかったことから、住民たちはやむなく大仏を売り渡すことになります。

清水 重雄 さん
「わしは、これ」

大仏を村から運び出すときに撮った写真です。福田さんと清水さんが写っています。

福田 季弘 さん
「大仏さんの台座がゴミですごく汚れとったんよ。それをタオルで掃除しよったら、(大仏を引き取りに来た人が)『それ、やってくれるな。古い感じがなくなるからやってくれるな』と」

頭と銅と台座に分けて、大人数がかりで運び出したといいます。こうして、「三段峡大仏」は広島市へ移り渡り、「広島大仏」として親しまれるようになったのです。

ふるさとの街で再び、お披露目された広島大仏。行列には100人以上が参加し、本通りと平和公園を往復しました。通りがかった人たちもその威容に驚いた様子でカメラにおさめます。

本通りに住む 奥本 博 さんは、復興パレードの様子を思い出しながら行列を見つめました。

奥本 博 さん
「あらためて、また当時のことを思い出しました。当時はもっともっとすごい行列だった。そういう思いがあります。時代の流れで、それは仕方ないけど、ぜひ広島へまつっていたただきたいですね」

時代に翻ろうされ、各地を転々とした広島大仏。一大行事を終え、12日から宮島の大聖院でお披露目されたあとは、奈良県へ帰ります。

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