北方領土問題 長崎で伝えたい 県内中学生ら北海道視察 元島民の思いに触れる

海の向こうに浮かぶ国後島を眺める生徒ら=羅臼町、羅臼国後展望台

 ロシアが実効支配する北方領土の問題について学ぼうと、中学生17人らで構成する本県視察団が7月26~29日、北海道根室市などを訪問した。講話や資料館見学などを通じ、故郷を奪われた元島民の思いや問題の複雑さに触れた生徒らに同行した。
 (生活文化部・嘉村友里恵)

 北方領土は北海道の北東に位置する歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の4島。旧ソ連は日本の敗戦後の1945年8月28日に択捉島へ上陸したのを皮切りに、9月5日までに北方四島全てを占領した。約1万7000人いた日本人の島民はその後、自ら脱出したり引き揚げたりして、全員が強制退去させられた。

 ◆洋上から慰霊 

 視察団は県町村会などでつくる「北方領土返還要求県民会議」が企画。北海道入り翌日の27日午前9時ごろ。一行はバスで宿泊先から1時間半以上かけて根室港に到着した。北方四島の元島民、家族らが船上から先祖を供養する「洋上慰霊」の日。ロシアによるウクライナ侵攻の影響で、墓参やビザなし交流などの事業が見送りとなった今夏、代わりに船で北方四島に近付こうと行われた取り組みだ。
 「今日は父と祖父のお参りで」。村椿忠義さん(82)は歯舞群島・多楽島で6歳まで暮らした。「なかなか島を訪れるチャンスがない。本当は自分が生まれたところを全て見たい」と漏らしながら、洋上に向かう船のタラップを上る。視察団の生徒らは、離岸する船に手を振って出発を見送り。長崎市立山里中3年の登立愛来さんは「国会議員なども来ていて、国と国の問題だと改めて感じた」と話した。

 ◆「生きている間に」 

北方館の岩山幸三館長(左)に北方領土についての説明を受ける生徒ら=根室市、市北方領土資料館

 その後一行は、歯舞諸島の貝殻島まで3.7キロの納沙布岬(根室市)へ。霧で島は見えなかったが、付近の北方館や市北方領土資料館を訪ね、領土問題や北方領土内での暮らしに関する資料を見学した。
 「自分たちが生きている間に(北方四島が)帰ってくる可能性は極めて低いと思う」。資料館を案内した北方館の岩山幸三館長の言葉に、一行は静まり返った。終戦後に島民と旧ソ連人が北方領土で生活した様子を収めた写真を指し示し、「両国の人々が一緒に住んでいたということは今もそれが可能だということ。4島は取り戻したいが、次善の策としてどうすれば両国にとって島を有効活用できるかを考えてほしい」と語った。
 その後訪れた根室市内の北方四島交流センター「ニ・ホ・ロ」では、歯舞群島勇留島で8歳まで過ごした角鹿泰司さん(85)の講話を聞いた。

 ◆近くて遠い島 

 快晴に恵まれた翌28日、一行は羅臼国後展望塔(羅臼町)へ。羅臼から約26キロの距離にある国後島の青く大きな島影が、展望塔の屋上からくっきりと見えた。「こんなに見えるなんて」「長崎にもこんなふうに島が見えるところがあるよね」…。強い日差しの中、生徒は近くて遠い島を眺め続けた。
 佐世保市立大野中3年の平山俊輔さんは「長崎では北方領土について学ぶ機会が少ない。北海道で会った人の話を伝えたい」。南島原市立深江中3年の入江みのりさんは「長崎の被爆者と同じように元島民も少ない。参加できて良かった」と充実感をにじませた。

参加した生徒

     
 ◎「殺される」声も出ず 自宅に押し入ったソ連兵に恐怖―8歳まで過ごした元島民 角鹿泰司さん(85)の話

「ウクライナの子どもたちの泣くに泣けない表情を見ると自分のことを思い出す」と話す角鹿さん=根室市、北方四島交流センター 【字解】

 〈歯舞群島・勇留島で8歳まで過ごした角鹿泰司さん(85)が27日行った講話の概要は次の通り〉
 島の当時の住民は約500人。カニやサケなどの魚に恵まれ、島民は漁業で生計を立てていた。子どもの私は野山を駆け回ってトンボを捕まえたり、友達と相撲を取ったりしてよく遊んだ。地域のお祭りや会合には島のみんなが出てきて交流を重ねた。
 1945年9月3日の昼過ぎ。事前に顔なじみの日本兵から聞いていた通り、3人のソ連兵がダダダッと自宅に押し入った。室内には両親と私と4歳下の妹の4人。若い女性はいたずらされるとうわさが流れていたため、姉たちは洞穴の中で身を潜めていた。
 3人は土足で床を砂だらけにしながら家中をかき回した。父親だけは彼らについて回ったが、母と妹と私は座って見ているしかできなかった。兵隊3人は自動小銃も携えていた。「殺されるかもしれない」。そう思うと声も出なかった。「家族全員か」「軍の兵隊はかくまっていないか」。身ぶり手ぶりで旧ソ連兵は父親に何度も尋ねたという。
 その後7カ月間は平穏だったが、島内の若い男女が近くの島に連れて行かれ缶詰工場で働かされるようになった。このまま徴用が続くと大変だと地区が判断。旧ソ連兵が数日おきに見回りに来る隙を突いて脱出することが決まった。
 1946年4月18日。午前0時だったと思うが、よその家のポンポン船に何とか乗せてもらい島を出た。身を隠した魚槽の中は暗くてぎゅうぎゅう詰め。誰が乗っているかも分からず動きも取れない。加えて声を出すな、泣くなとも言い聞かせられた。納沙布岬に近づくとようやく「もう大丈夫」と言われた。午前6時半に根室の岸壁に着いた瞬間は今も忘れられない。
 ウクライナで戦争が起きている。声を出せず涙だけ流す子どもの表情をテレビで見るたびに自分もそうだったと思い出す。日本が無条件降伏をしていれば、8月6日も8月9日もなかったし、私がこの話をすることもなかった。二度とこんな思いをしてほしくない。


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