関東大震災震源地近い小田原の惨状生々しく 当時被災した銀行員の日記 地元歴史愛好家が解読・刊行

関東大震災の小田原の被災状況がつづられた「片岡日記」を刊行した「小田原史談会」メンバー

 関東大震災の震源地に近い小田原市中心部の被害状況をつづった当時の銀行員・片岡永左衛門(1860─1943年)の日記を、歴史愛好家グループが解読し「片岡日記・大正編」として刊行した。市街地の4分の3が焼失し、片岡の幼い孫2人も犠牲となった。変わり果てた小田原の惨状を被災者が日記で記録した史料は珍しいといい、同グループは「失われかけた震災の教訓を人ごとにしてはいけない」と呼びかけている。

 片岡は江戸末期に小田原宿本陣の家に生まれ、小田原町(当時)の町議会議員や助役などを歴任。1905年に藤沢銀行(横浜銀行の前身)の支店長に就任した。郷土史家としての顔を持ち「明治小田原町誌」などの記録文書を執筆し、史料約360点を生前に小田原図書館に寄贈した。

 日記は02年から明治、大正、昭和を通じて書き続けられ、遺族らが44年に図書館に寄贈。古い崩し文字で記され、長らく書庫で眠っていたが、歴史愛好家でつくる小田原史談会が価値を見いだし、2014年から解読に着手した。

◆一面が火の海

 日記によると、1923年9月1日正午前、銀行の控え室で昼食を取る片岡を巨大な揺れが襲った。崩れた建物から何とかはい出し、すぐに自宅に走った。

 自宅には妻と孫4人がいたが、幼い孫娘2人が屋根の下敷きとなった。救い出した時には意識もなく、運び込もうとした病院から火の手が上がった。片岡は遺体の前で念仏を唱えることしかできなかった。

 小田原城の石垣は崩れ、町役場周辺は一面が火の海と化した。その晩は郊外の畑に蚊帳を張ったが一睡もできなかった。片岡は未曽有の大災害の当日、その思いを歌にして日記に記した。

 「人の世の富も何(いか)なるうたかたの 覚てあとなき暁の夢」

 被災3日後には街中で略奪行為が横行し、小田原にも「朝鮮人が井戸に毒薬を入れている」というデマも流れた。自警団が竹やりで武装し、夜は物置で息を潜めたという記述に、震災直後の混乱ぶりが伝わる。

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