連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第43話

 この私達の経営を一層悪くしたのが一九六五年に購入したバルメット印のトラクターであった。伯銀との支払契約は一年据置きの三年払いで、期日が来たら支払わねばならない。払う金はないので、伯銀にも焦げ付きとして借金が残っていく。伯銀としても取立てが出来ない場合は法的処置が出来るまで月に一%の利子がつく。サンロッケの伯銀支店はこの様な状態で二~三年過ぎた頃、突然官報にKEI KUROGIの七アルケール余の土地を競売に出す、と載せた。これをコチア組合の弁護士が見つけて、森田さんに通知してくれた。森田さんもびっくりして私のところに飛んできてくれた。その時、私はバタタの収穫期ですでにかなりのバタタをコチア組合に出荷していた。それで早速それを清算日まで前貸ししてもらって、森田さんはこの金を持ってこのレイロン(競売)に参加してもらった。そしてこの土地を二万二千コントスで森田さんの名前で落札してもらった。これで伯銀の借金はゼロになったのである。森田さんには色々とお世話にはなったけど、金銭的にはほとんど迷惑はかけなかった。でもこの土地の名義は森田さんになっていたので、それから八年目の一九七九年だったか、また私の名義に切り替えてもらった。

    弟・巳知治、町で仕事を得る

 ところで、弟、巳知治の動勢はどうであったのだろうか。巳知治も大きな夢に気持ちは燃えていた。でも、不幸にして彼が着伯してすぐから兄貴の私の営農状態が急に悪化して、彼の燃える気持ちに水を注ぐ結果になった。彼なりにどうでも農業で身を立てようと努力した。兄貴の仕事に頑張って協力した。でも、私は今の家状態では巳知治の夢をかなえてやれる見通しは全然なかった。そこで三年目の頃だったか「もう家にいても見通しがないのでパラナ州の種芋作りの所で一からやり直して頑張ってみないか」との話し合いで、多分半年位パラナの芋作りの所で働いた。「でもやはり兄貴の近くでもう一度人参作りなどしてみたい」と言って帰って来た。少しの期間、それを始めようと、近くの土地を借りる準備までしたけれど、当時の営農の周りの空気は重く、将来への明るさが見えない。
 そこで私達と巳知治は頭を寄せ合って話した結論は「こんなに農村の状態が悪いので巳知治は日本で覚えた技術を生かして町で仕事を探した方が良い」と言うことになり一九六九年の暮れだったか巳知治は町に出た。

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