【元阪神・横田慎太郎の「くじけない」⑨】「船に乗ったら、途中では降りられない。最後の港で一緒に降りよう」―母は弱音を吐いた僕に言った。折れた心が息を吹き返す。「諦めない」と

引退して鹿児島に帰郷した後、家族と写真に納まる横田慎太郎さん(奥)。病院で付き添った母のまなみさん(左)をはじめ、父の真之さん(右)、姉の真子さんも2度の入院を支えた=2020年3月5日

 「治療をやめたい」。先の見えないつらさに初めて弱音を吐いた僕に、母はこう言いました。「船に乗ったら、途中では絶対に降りられないよ。最後の港で一緒に降りよう」

 折れそうになっていた心が、母の言葉で息を吹き返しました。「まずは1時間を乗り切ろう」「次は1日」など小さな目標を立てて、一日一日を耐えました。苦しい中でも「絶対に治る。諦(あきら)めない」と自分に言い聞かせました。

 脳腫瘍(しゅよう)の時と同じ約半年間の入院生活が、それ以上に長くきつく感じました。

 そんな中、ずっとそばにいてくれた母の存在は大きかったです。少し元気が出た時は一緒に散歩し、歩けない時は車いすで連れて行ってくれました。落ち込んだ時には励まし、笑顔を忘れた時は笑わせてくれました。

 まさに二人三脚で乗り越えてきました。

 新型コロナウイルス禍で面会は禁止でした。前回代わる代わる鹿児島からお見舞いに来てくれた父と姉とは、半年間一度も会えませんでした。代わりに電話を何度もかけてくれました。「一日も早く病気を治して鹿児島に帰り、元気な顔を見せたい」と強く思いました。

 自分一人で病気と闘うことは、とてもできなかったと思います。家族の存在が気持ちを奮い立たせてくれました。感謝しかありません。

 もう一つ、気持ちを立て直せた転機がありました。

 入院中、ふと周りを見回すと、患者さんたちがみんな不安そうな表情で下を向いていました。

 自分はもうグラウンドには戻れない。でも、病気を克服して元気になり、同じように悩み苦しむ人たちの力になることはきっとできる。

 そんな思いが、再び前を向く原動力になりました。その時初めて「病気を受け入れよう」と思えました。

 「神様は乗り越えられない試練は与えない」。昔から語られてきた言葉です。26歳で大きな病気を2度経験し、乗り越えた今、改めてかみしめています。

【プロフィル】よこた・しんたろうさん 1995年、東京都生まれ。3歳で鹿児島に引っ越し、日置市の湯田小学校3年でソフトボールを始める。東市来中学校、鹿児島実業高校を経て、2013年にドラフト2位で阪神タイガースに入団。3年目は開幕から1軍に昇格した。17年に脳腫瘍と診断され、2度の手術を受けた。19年に現役引退。20年に脊髄腫瘍が見つかり、21年に治療を終えた。現在は鹿児島を拠点に講演、病院訪問、動画サイトの配信など幅広く活動している。父・真之さんも元プロ野球選手。

2度目の入院中、泊まり込みで付き添う母横田まなみさん(左)。つらい治療に耐える慎太郎さんを支えた=2020年11月23日

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