「大きな存在」2000人がお別れ 照喜名朝一さん告別式 歌三線を献奏

 10日に90歳で亡くなった琉球古典音楽の人間国宝で、安冨祖流の普及や沖縄文化の発信に尽力した照喜名朝一さんの葬儀と告別式が17日、那覇市のサンレー那覇北紫雲閣で執り行われた。照喜名家、南城市、沖縄伝統音楽安冨祖流保存会、琉球古典音楽安冨祖流絃聲会、琉球古典安冨祖流音楽研究朝一会、琉球新報社の合同葬。参列者約2千人が別れを告げ、照喜名さんをしのんだ。

 葬儀委員長の普久原均琉球新報社社長は「先生が公の場へ最後に姿を見せたのは、師匠・宮里春行先生の名を冠した宮里春行賞の贈呈式を開催した琉球新報ホールだった。先生と共に生きた時代を私たちは誇りとし、永遠に忘れることはない」と弔辞を述べた。安冨祖流絃聲会で「組踊音楽歌三線」人間国宝の西江喜春さんは「先生の一番好きな『仲風節』を歌う度に(先生を)思い出すだろう。天国でも毎日歌って、見守っていてください」と話した。

 師匠から学んだ教えを受け継ぐ思いを込め、高弟による「ぢゃんな節」が献奏された。親族代表謝辞で、照喜名さんの息子で弟子の朝國さんは、朝一さんと過ごした最期の時間を振り返り、「父は最後まで偉大で、真の音楽家だった。本当の家族愛も教えてくれた」と言葉を詰まらせた。

 「琉球古典音楽」人間国宝の中村一雄さんと照喜名さんの出会いは、琉球新報の琉球古典芸能コンクールで新人賞を受けた時だった。審査員の一人だった照喜名さんが歌を聴いてすぐに「がんばってよ」と声をかけてくれたのがとても印象に残っているという。「コロナ禍で頻繁にお会いできなかったのがもどかしい」と悲しんだ。那覇市文化協会会長の崎山律子さんは、「人がやらないことに果敢に挑む一方で古くから人々が守ってきたことを大切にする、希有(けう)な存在だった」と惜しんだ。玉城デニー県知事は「お亡くなりになったのはただただ心が痛いばかりだが、先生の存在はこれからも大きな存在として残り続けるだろう」と述べた。 (田中芳、伊佐尚記)【関連記事】
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