“1枚の写真、謎解く鍵に” 佐世保に震洋の集積場 基地への補給が役割か

見つかった写真を手に下船越町を訪ね、遺構などを確認した川内野係長。指し示す先が「丸島」=佐世保市下船越町

 太平洋戦争中、佐世保市下船越町に旧日本軍の水上特攻艇「震洋」の集積場とみられる施設があったと裏付けたのは、長崎平和推進協会の写真資料調査部会が市に提供した1枚の写真だった。市教委文化財課の川内野篤係長(43)は、以前から震洋の施設が市内にあったと考えていたが、裏付ける証拠がなく「長年の謎を解く鍵になった」と言う。写真を手掛かりに同町を訪ねると、戦時中を生きた親世代から、口伝えで震洋の逸話が引き継がれていた。

通路沿いに並べられた震洋。中央右奥にはエンジンを積み込むために使用したと見られるクレーン車ややぐらが写る。写真の台紙に記されていた説明文は以下の通り。「JAPANESE EQUIPMENT, SUICIDE BOATS ― INT. PHOTOS. Boats are in a long row, over 100 of them. Sasebo, Japan Sgt. J. T. Dreyfuss 23 September 45」(米国立公文書館所蔵、長崎平和推進協会写真資料調査部会提供...

■兵隊寝泊まり
 同町で生まれ育った自営業の山口寛三さん(70)は、写真を見て「親から、舟を入れていたと聞いている」と海辺を指さした。「何に使っていたかは、はっきりと分からない。修理だったんじゃないか」と推測する。写真が捉えた工場らしき建屋などがある場所は、戦時中に海軍の指示で埋め立て「丸島」と地元で呼ばれていた。震洋を陸地に引き揚げた際に使用したとみられるスロープや、ドッグらしき遺構も残っていた。「ここから舟に乗って、死んでいったんだろう」。山口さんは静かに海を見つめた。
 同じく同町で生まれ育った男性(71)も両親らに「潜水艇の何かがあった」と聞いていた。小学生の頃、同町の海辺で海水浴をしていると「潮が引いたとき、舟の残骸と思われる破片などを見た」と振り返る。実家の近くでは「旧日本軍の兵隊が寝泊まりしていたとも聞いた」という。
 2人は「当時を知る人は亡くなり、もういない」と口をそろえる。
 川内野係長は2004年ごろ、市の取り組みで太平洋戦争中に東彼川棚町に設置された震洋の訓練所を児童に案内した。その際、同町で撮影されたとされる震洋の写真にある山の形が、実際の山と異なることに気づいた。これ以前にも、船越町付近に震洋の基地があったという証言を聞いたことがあり「ひょっとしたら」と思った。

■山の形が一致
 今回見つかった震洋の写真。写真の山と下船越町の山の形を照らし合わせると、見事に一致した。「やはり佐世保に震洋はあった」。川内野係長の長年の見立てが一致した瞬間だった。
 同町を訪ね歩くと、撮影場所は集積場近くの高台にある神社と判明した。現在も施設の基礎や、部品を洗うために使用したと見られる水槽などが現存しており、次々と新たな手掛かりが見つかった。川内野係長は「当時を伝える遺構が残っている。今後、施設の詳細な調査が必要」と語る。
 川内野係長によると、戦時中、佐世保鎮守府は現・小佐々町矢岳の前島に「第三十一突撃隊」を設置。小佐々町の郷土誌には、約50隻の震洋が配備予定とする記録がある。
 こうしたことから、川内野係長は下船越町の集積場は、位置関係から分析し「突撃隊の基地に対する補給の役割だったのでは」と推測する。川棚町は訓練所で震洋の格納庫などがあったのに対し、下船越町は実戦配備や整備をする場所で「役割や目的が違う」。川棚町の施設よりも規模は小さく「九州全土の震洋艇を受け入れるほどではなかったはず」と分析する。

現在の下船越町で撮影した写真。見つかった写真と比較すると、山の形がほぼ一致している=佐世保市下船越町

■謎は多いまま
 ただ、旧日本軍の資料にも地図のほかに「下船越」の表記は一切ない。下船越町の集積場が旧日本軍のどの組織に所属していたかなど謎は多いままだ。「まだ、いろいろな証言や資料が眠っているのではないか。他にも同様の施設があるかもしれない」(川内野係長)。市は下船越町の震洋に関する情報提供を呼びかけている。

◎戦争体験継承に活用を/長崎平和推進協・写真資料調査部会

 長崎原爆関連の写真の収集・調査などに長年取り組んでいる長崎平和推進協会の「写真資料調査部会」。佐世保市内に特攻艇「震洋」の集積場があったと裏付ける写真を市に提供し、長崎と佐世保が連携して真相にたどり着いた。松田斉部会長は「写真の発見は(戦争体験や地元の歴史を)継承していく上で大きなツールになる。地元で活用してもらいたい」と話す。

長崎原爆に関連する写真などを分析する松田部会長=長崎市平野町

 1983年に発足し、現在30代~90代の9人が所属。米国立公文書館が所蔵している写真や、民間から持ち込まれた写真を検証している。これまで検証した数は6500枚前後。撮影時期や当時の状況が明確でないと、後世で誤って使われることもある。活動には、写真にある当時の状況などをデータとして残す意義がある。
 下船越町の写真は、松田さんが検証過程で見つけた。佐世保に関連がある写真と見て、佐世保市教委の川内野篤係長に相談し判明した。同部会は長崎原爆に関する写真の検証が主だが、松田さんは「単にコレクションするのではなく、活用しなければ意味がない。地元で広く周知するのが写真の生きる道。(行政などと)タッグを組むことは重要」と強調する。
 同町に残る遺構は「写真の裏付けにもなり(震洋を)、よりリアルに感じられる」と価値を評価。可能な限り保存し「訪れた人が分かるように説明板などを設置すると、平和教育にもなり理解が深まるのでは」と提案する。


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