連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第45話

 バルゼン・グランデ日本語学校の創立は一九三四年なので、私が生まれた年である。第二次世界大戦中は日語教育は敵性語として、四年間位ブラジルの官憲のにらみが厳しく大変だったそうだけれど、各地単位に隠れて授業を続けたとか。日本人の子弟の教育に対する熱意には頭が下がる思いである。終戦後は日語教育の解禁で、その復活がめざましく、バルゼン・グランデも文化協会がその運営母体となり、近隣のイビウーナ、ピエダーデ、その他の地域を包含した。スドエステ(聖南西)連合会が組織された。そして、その活動も野球や陸上競技のスポーツ、作文発表、林間学校、その他、あらゆる交流が持たれる様になった。
 バルゼン・グランデの日語校の生徒達は午前と午後に分かれていて、午前の部の生徒達は午前中日本語の勉強を受けると、昼間からは一㌔離れたグルッポ・エスコラール(ブラジルの小学校)で四時間の授業を受けるのである。また午後の部の生徒はその反対の時間割になる。この様にして四年間を終えると続けてあと四年間を同じ学校で学ぶことになり、この八年間がブラジルの義務教育である。
 我が家の子供達がバルゼン・グランデで学んだ頃は、私の同輩のコチア青年の子供達も大勢いたので賑やかであった。
 当時の先生方の名前を想い出してみると渥美先生、岩淵先生、むつ子先生、ピアノの三井先生、その後、剣道の岩本先生、古沢先生、小西先生などである。長女のるり子は特別な習い事はできなかったけれど、日本の漫画の本を好んで読んでいた。その故か今でも日本語の文法に近い話し方をする。
 長男で唯一人の男の子、悟は入学してすぐから渥美先生に野球を仕込まれ、成人した今でも続けていて、野球は彼の人生の側をいつもついて歩いて来たようなものである。
 次女、恵美と三女、絵理子は三井先生にピアノを習った。特訓でプロになるほどに勉強したわけではなく、唯、情操教育の一つとして「エリーゼのために」など得意気に弾いていたものだった。その後、絵理子は岩本先生に習って剣道を始め、バルゼン・グランデ剣道部から後には国士舘剣道部へと変わり、その後、十七才の時に日本の東京世田谷区にある国士舘大学に剣道留学したのである。そこで四年間の剣道留学と並行して二ヵ年の短大で国文学を学び、日本の中学教師の資格を持って帰伯した。又、剣道三段で剣道世界大会にも親善試合にブラジル代表で二回出場している。
 さて、我が家の子供達の成長初期の記憶はこの辺りで置いてその後のことは又の後編にゆずる事とする。

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