【陸上物語 FILE21 竹澤健介】亡き恩師への想い胸に〝アスリート育成への道〟を駆ける!長距離ヘッドコーチ 竹澤健介

アスリートの生き様を尋ねて全国を回る「陸上物語」。    
21人目のゲストは、早稲田大学で箱根駅伝4年連続出場・3年連続区間賞を獲得、2007年世界陸上大阪大会と翌年の北京五輪に出場した、摂南大学陸上競技部ヘッドコーチ(2022年4月~、取材時は大阪経済大学陸上競技部ヘッドコーチ就任)、竹澤健介さんです。
箱根路を走る臙脂色のユニフォームに憧れた少年は、いつしか世界に挑むトップアスリートに。そして今、怪我で苦しんだ経験と亡き恩師への想いを胸に、名コーチへの道を走り出しています。

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報徳学園高校(兵庫県)と洛南高校(京都府)の繋がり

ーー陸上物語をご覧の皆さんから「待ってました!」という声を、たくさんいただきました。私(庄野数馬)と同い年(1986年生まれ)、そして同世代の星!テレビでいつも拝見していました。

ありがとうございます。

ーーそんな竹澤さんが今、関西を拠点に指導されているということで…。これまでの陸上競技人生と指導者としてのお話をじっくり聞かせていただきたいと思います。ちなみに、竹澤さんは「陸上物語」をご覧になられたことはありますか?

はい!観させていただきました。FILE18の柴田博之先生の回を、何度も拝聴しました。

ーーどうでしたか?

指導者になった僕にとって、1番響くというか…。「僕もこういう指導者になっていかなければならないな」と思わせていただきました。

ーー一方で、洛南高校の中・長距離の奥村隆太郎監督とは同い年ですよね?

はい。奥村は高校時代から仲が良かったのですが、あんな大監督になってしまって(笑)。僕も頑張らなきゃと思います。

ーー洛南高校陸上競技部の礎を作り上げられた中島道雄先生と報徳学園高校陸上競技部を作り上げられた故・鶴谷邦弘先生は親交があったとお聞きしました。両校のあいだには深い関わりがあったのでしょうか?

そうですね。合同合宿などにも参加させていただいたりしていました。僕も実は高校2、3年の時に、鉢伏高原で行われる洛南高校の合宿に参加させてもらって、頑張っていました。

ーー当時、洛南高校・中島先生ともお話しをされましたか?

中島先生とは高校卒業後にお話をする機会のほうが多く、その時にいつも鶴谷先生のお話で盛り上がります。

水泳で鍛えた心肺機能で陸上を

ーー「臙脂色(早稲田大学競走部)のユニフォームが格好よかったから」という思いが、陸上を始められたきっかけだったとお聞きしましたが、本当ですか?

本当です。小学校2、3年生の時に「早稲田大学の臙脂色のユニフォームが格好いいな」と思い、「ここ(早稲田大学)で走ってみたい」と思ったことが、陸上競技を始めたきっかけでした。

ーー早いですね!

実は、小学校6年生までは水泳に打ち込んでいたんです。ですが、マラソン大会でもいい成績を残していたので「いずれは陸上競技のほうにもいきたいな」と思っていました。

ーーそこから臙脂色のユニフォームで箱根路を駆ける夢を実現されたのですから凄いですよね。

「念ずれば叶うものだな」と思いましたね(笑)。

ーー中学校で陸上競技部に入部されたのですか?

そうです。実は、実家の学区内の中学校には陸上部がなくて、「(中学校でも)水泳を続けるのか」と思っていたのですが…。近くの祖父の家に住めば、陸上部のある中学校に通えるということを知り、実家から少し離れた中学校に通っていました。

ーー実家から離れておじいさまの家から通われていた?

そうですね。実家からもそんなに遠くなかったので、ずっと祖父の家にいたわけではありませんが。

ーー続けてきた水泳ではなく、「どうしても陸上部に入りたい」と思われたのはなぜですか?

僕、実は水泳で挫折していまして…。僕は身長が低く、体重も軽かったんです。今でも覚えていますが、月、水、金、土、日と4000m~5000mも泳いでいるのに、週1、2回しか練習していない、僕よりも恰幅のいい男の子に負けてしまって。幼心に「自分は水泳に向いていないんじゃないか?」と思っていました。そこで「陸上競技なら活躍できるかも」と思ったことが、きっかけかもしれません。

ーー水泳での経験が、陸上競技をする上での基礎体力づくりに活かされたのかもしれませんね。

大きかったと思います。特に心肺機能の面では、息が上がりづらくなっていたように感じます。

〝サーキットトレーニング〟で全日本中学校陸上選手権入賞

ーー水泳一筋だった竹澤少年は中学校で陸上競技に開眼、全日本中学校陸上選手権で入賞するほどの実力をもった選手になられました。当時、「自分は日の丸を背負う選手になるんだ」という意識はありましたか?

全くないです。本当に田舎の普通の子供でしたので、自分自身にそこまでの期待もしていませんでした。ただ、「先生が出す日々の練習を、とにかく実直にこなす」ということを繰り返していたら、自然と成果が出ていました。

ーーこれ、トップアスリートの皆さんが口を揃えておっしゃることなんですよね。

先生が言っていることを疑った瞬間に、マイナスの方向に走ってしまうと思っています。僕はちょっと単純な性格でもあるので、中学生の時は「先生が言っていることを丁寧にこなしていけば成果が出るんだ」と思い込んで、練習を続けていました。

ーー先生のお名前は?

坂本先生という方です。本当に工夫されて指導されている先生で…。当時は、短距離の選手がおこなうような練習をたくさんこなしていました。ビールの空き箱を使ったボックスジャンプや縄跳び、エアロビクス、タイヤ引きとか…。

ーーいわゆる、「サーキットトレーニング」のようなイメージでしょうか?

そうですね。長距離の選手って走る練習がメインだと思われがちですが、僕は身長が低かったこともあり、そういった部分が先生も弱いと思われていたみたいです。そういった練習を組み込みながら、走る練習をちょこちょこやると、記録が向上していきましたね。

ーー坂本先生とは今も連絡を取り合われていますか?

もちろんです。

ーー竹澤さんが五輪に出場された時は、さぞ嬉しかったでしょうね。

本当に喜んでいただけました。「恩返しができたな」と感じて、嬉しかったですね。

報徳学園高校へ 鶴谷先生との出会い

ーーその後は名門・報徳学園高校に進学されます。これはどういったご縁で?

僕が住んでいた姫路市と報徳学園高校は100kmぐらい離れているのですが、当時、報徳学園高校でコーチをされていた平山先生が、7時からの朝練習のために通っていた中学校まで来てくださって。朝練習が終わるのを待って「是非」とお声がけくださったんです。幼心にどれだけの労力をかけて来てくださったかということも分かっていて、「そこまで言ってくださるのは、きっと並大抵のことではない。ここ(報徳学園高校)で頑張ってみたい」と思ったことがきっかけでした。

ーー中学生の竹澤さんにとって報徳学園高校はどのような印象でしたか?

実は、ものすごく報徳学園高校に思い入れがあったというわけではなく…。実は洛南高校と報徳学園高校のどちらかに行きたいなと思っていたんです。

ーー竹澤さんの高校3年間を振り返りますと、インターハイで入賞されましたし、3年生で出場された2004年全国高校駅伝では1区を区間11位、チームとしても4位入賞という成績を収められました。1番記憶に残っているのは、どんなシーンでしょうか?

やっぱり、駅伝が1番大きかったかもしれませんね。1つの目標に向かってみんなで努力する経験は、何事にも代えがたいような気がしています。自分だけではだめだし、他のチームメイトだけでもだめです。みんなで支え合いながら、1つのものを作り上げたという経験は、すごく印象に残っています。特に全国高校駅伝に出させていただいた時は、近畿地区代表としての出場でした。兵庫県大会で兵庫県立西脇工業高等学校に負けてしまって。悔しい思いを抱きながらも「近畿大会で頑張るぞ」とチームが一致団結し、近畿大会で出場権を勝ち取って、全国大会に出場したという背景があります。4位になれたのは、たまたま戦力が充実していたということであったと思いますが、それまでの過程がすごく印象に残っていますね。

ーー個人のインターハイ出場よりも、駅伝が印象深かったんですね。

もちろん「早稲田大学(競走部)に入りたい」という思いが強かったので、インターハイもすごく印象には残っているのですが…。

ーー「結果を出さないと(早稲田から)声がかからないぞ」という思いが?

そうですね。「ここがラストチャンスだ!」という思いで取り組んでいたので。でもトータルで考えると、やはり駅伝の方が印象深いですね。

〝逆指名〟で入学!?早稲田大学へ

ーー念願叶えて、早稲田大学の門を叩くことになるわけですけれども、これはどういうお誘いだったのでしょうか?

これは、完全に〝逆指名〟でした(笑)。みんなは、恐らく4月とか5月くらいにおおよその進路が決まっている状況だったと思いますが、僕は逆指名で(早稲田大学に)取ってもらえるか分からない状況が、8月のインターハイの最後まで続きました。インターハイで8位入賞を収め、日本人で3番に入れて…。それでようやく、最後にゴーサインが出て(入学が)決まりました。

ーー仮に、早稲田大学から断られていたらどうしていたんですか?

高校の先生からは「浪人してでも行くのか?それぐらいの気持ちで早稲田に行きたいと思っているのか?」とよく言われていました。現実的に考えて、自分の学力が足りないことは自覚していたので、実は指定校推薦で立命館大学に進学しようかと…(笑)。

ーー驚きの事実がいろいろと出てきますね(笑)。ユニフォームは同じ臙脂色ですが…(笑)。

早稲田大学じゃなかったら、箱根を目指すことは考えなかったかもしれません。

ーー小学校低学年の時にテレビで見た、早稲田大学の渡辺康幸選手と臙脂色のユニフォームを見て、憧れを抱き続けたんですね。一度も他の大学にはブレなかったんですか?「山梨学院大かっこいいな」とか…(笑)。

ならなかったですね(笑)。兄が山梨学院大を応援していたので、余計に対抗心があったのかもしれませんが。

ーー入学してから、早稲田大学での練習はどうでしたか?

結構、自由度が高かったように思います。高校の時とは違った感覚で、それはそれですごく新鮮だったのを覚えています。

ーー高校の時はキツかったんですよね?

キツかったですね(笑)。分刻みではないですが、寮生活をしていたので、食事の時間や入浴時間など、さまざまな規則がありました。そんな生活を送っていまましたので、大学に進学すると、自由な時間が増えて、いろんなことを考える時間も増えました。成長のきっかけになったと思います。

ーー自由な時間が与えられることによって、どうすればいいのかわからず、力を落としてしまう選手もいる中、竹澤さんの場合は〝考える時間〟に?

そうですね。僕の場合は「早稲田大学に入りたい」という思いを心の中にずっと持っていたので、「入学させていただいたからには貢献しないといけない」という思いを常に持っていました。

箱根駅伝、世界陸上、北京五輪

ーー大学入学後は、〝個人種目の5000m、10000mで世界を目指す〟という思いと〝箱根駅伝で活躍する〟という思いのどちらが強かったのですか?

もともとは、完全に「箱根駅伝で活躍したい」という気持ちのほうが強かったと思います。ただ、当時は「早稲田大学に入りたい」という思いはあったものの、「箱根駅伝で活躍したい」というビジョンを描けるまでの思考はありませんでした。「(箱根に)出たいな」と思っていたら、運よく出られたという感覚でした。しかし、大学1年生の時に2区を区間11位で終えたことをきっかけに「もっと強くならないといけない」と思うようになりました。もし、その時に区間上位だったら、個人種目でもそこまで頑張れなかったような気がしています。

ーー竹澤さんが大学1年生の時は、箱根駅伝予選会からの出場ですよね。竹澤さんがテレビで見て憧れていた当時の〝強い早稲田〟ではなくなっていた時期でもありました。

そうですね。早稲田大学はシード権を落とす時期が長く続いていたので、チームとしてもそれに慣れてきている雰囲気もあったと思います。でも、少しずつ強くなっていくにつれ、自然と「もっとみんなで頑張ろう」というのが生まれてきて…。そんな時期に入部させてもらいました。

ーーその後、2年生から4年生まで、3年連続で区間賞を受賞されました。この時は毎回、受賞の自信があったんですか?

いや、僕は本当に怪我が多くて…。そんな中でも、2年生の時は割と自信を持ってスタートラインに立てていたかなと思いますが、3・4年生の時は「自分なら出来るんだ!」という気持ちで、自分を奮い立たせて押し切っていた感じですね。

ーー日本選手権などで戦った同世代の上野裕一郎さんは竹澤さんにとってどういう存在でしたか?

いや…もう、一言で表すと〝天才〟です。
僕は、練習も他の物事についても〝考えてやるタイプ〟なのですが、上野さんの場合はその一瞬に賭ける集中力や、凄みのようなものがありました。

ーー竹澤さんが当時一番ライバル視していた選手は誰ですか?

一つ上の学年の皆さんがすごく強かったので、先輩方を意識しながら、自分のことに集中していました。そのほうが自分のパフォーマンスを保てていたと思います。

ーー個人種目では2007年世界陸上大阪大会(10000m決勝12位)、2008年北京五輪出場(同28位、5000m予選出場)と、素晴らしい飛躍を遂げられています。あのシーズンを振り返っていかがですか?

大学3年生のシーズンは、割と順調にシーズンインできていたので、世界陸上に関しては良いコンディションで臨めたのかなと思っています。しかし、4年生の時は、怪我にかなり苦しみながらの五輪出場だったので、しんどかったですね。

ーーどういう怪我を?

股関節を痛めてしまって。それが尾を引いて、アキレス腱を痛めたり、いろんなところを痛めてしまいました。1箇所治してはまた1箇所怪我をする、ということを繰り返して…。怪我に長く苦しみましたね。

ーーそれは練習量を変えたりしても、付き合っていくことが難しかった?

そうですね。当時は、リハビリの知識も足りなかったので、すぐに復帰してしまっていました。走る能力が上がっていたので、そういった無理ができてしまうんですね。痛くても誤魔化しながら走ったら、他人よりは速いという状況で…。出場して成果が出たら周りが喜んでくれる、その繰り返しでなんとか、騙し騙し自分のモチベーションを高めているような状況でした。

ーーでは、北京五輪のスタートラインに立った時は100%の状態ではなかった?

実は、ほとんど練習ができていなくて。試合前に誤魔化しながら1000mを何本か走って、レースに出場するような、とんでもないコンディションで日本選手権に出場しました。でも、そういう時だったからこそ、火事場の馬鹿力が出たんじゃないかなと思います。
なので、五輪出場が決まった時は〝嬉しい〟というよりは〝安堵〟のほうが大きかったです。
実際に出てみると、世界の壁は本当に厚くて…。自分の中では、ある程度コンディションも回復してきていましたし、満足のいく練習をして本番を迎えられていたので、そこそこ頑張れるかなという期待を持って走りました。しかし、10000mを走って、周回遅れにされてしまって。世界のレベルの高さを痛感した大会でした。

ーーその次の目標はなんだったのでしょうか?

そこで、次のビジョンを描けなかったのが僕の弱さだったと思います。「目先の大会を頑張っていけば世界に近づける」と思っていたんですけれども、そうではなかったんですよね。想像できないことは、やっぱり行動にも移していけなくて…。世界大会に向け、逆算して物事を考えていかなければならなかったのに、「身近にある大会をこれまで通りにこなしていけば、世界で戦える位置までいけるんじゃないか」と思って取り組んでいたんですけれど、それが上手くいかなかったですね。

ーーとはいえ、2010年日本選手権の10000mで初優勝されています。2012年のロンドン五輪までは出場する気持ちが?

もちろん出場するつもりでやっていましたし、努力していました。しかし、実は2010年の日本選手権の時に、足底腱膜炎で足底の腱が切れる大きな怪我をしてしまって。それで、また半年走れなくなりました。常に怪我と隣り合わせの競技生活だったので、2012年に向けて、コンディションやモチベーションを上手く保っていくことが難しかったです。

エスビー廃部後、DeNAに進まなかった理由

ーー大学卒業後に入社したのはエスビー食品。それこそ、上野先輩の1つ下で入って、瀬古利彦さんに指導されるという環境だったと思いますが、のちにエスビー食品陸上部が廃部になってしまい、大半がDeNAに行かれた中、ご自身は選択されませんでした。この決断の理由は?

本当はついていくべきだったのかもしれないけれど、〝自分で決断をしたことしか頑張れない〟という性格を自分でも分かっていて。早稲田大学に入った時も、エスビー食品に入社した時もそうでした。自分で決断をしてきたからこそ、自分で責任が取れる。だから仕方がないし、〝自分が選択した決断を、一生懸命やりきる〟というのが、自分にとってすごく大切だったんですね。なので、もう一度自分自身で切り拓いていこうと思いました。ついて行って、言い訳しながら競技人生を送りたくない。自分で決断をして、競技生活を送るほうが、自分も納得するだろうという思いのもと、新しい道を模索することにしました。

再び渡辺監督と共に 住友電工を選択

ーーエスビー食品陸上部の廃部後、姫路市陸上競技協会で活動をされています。この間というのは、次の所属先を探していた?

そうですね。早稲田大学に戻って渡辺康幸監督の指導を受けていたのですが、その期間もどこか手を挙げていただけないかなとお願いしていた状況でしたね。

ーーそんな中、住友電工に渡辺康幸監督が来られることになった。

そうですね。住友電工は地元の兵庫県の企業で、伊丹市に製作所がありました。身近な企業でしたし、物作りを生業にした企業ということで、形ある製品を作って売って行くという作業が、陸上競技に通ずる部分があると個人的に感じていて。そういった企業なら、誇りを持って競技を続けられるんじゃないかなと感じ、住友電工を選ばせていただきました。

引退を決めた日

ーーその後、引退という決断をされています。その時の状況や気持ちはいかがでしたか?

実は、もう脚が思い通りに動かせないという期間が長く続いていて。大会で走っていて「もう走れない」と感じたのが、2016年の関西実業団駅伝という大会だったのでした。そこで下り坂を走っている時に「ああ、もうダメだ」と思い、2日後に「引退します」と言っていました。実際、もう頑張れる状態ではなかったし、その後手術をしましたが、靭帯は摩耗してしまっていて、もう正常に機能しなくなってしまっている状態で…。結果的に人工靭帯を入れてボルトで止めるオペをして、なんとか日常生活では問題がなくなりましたが、現役で競技を続けていくのはしんどい状況だということは自分で直感的に分かっていたと思います。それが引退の理由ですね。
怪我が自分を成長させてくれた部分もあると思いますし、〝怪我を乗り越える〟というモチベーションを持てたことも、自分にとっては良い経験でした。指導者になって、この経験がとても活きている気がするんです。
ほとんどの怪我は、きちんと正しいリハビリをおこなえば、治る怪我が多いんです。しかし、上限を超えてしまうと治らない怪我に繋がってしまう。そういった〝さじ加減〟みたいなところも、自分の競技生活を通じて学べた部分だと思っています。

亡き恩師・鶴谷先生の跡を継ぐ

ーーここからは、指導者としての歩みについて伺います。大阪経済大学陸上競技部ヘッドコーチ就任のきっかけは?

報徳学園高校から大阪経済大学へ進まれた青木基泰監督から「鶴谷先生の後任としてやってみないか?」とお声がけいただき、就任させていただく流れでした。

ーー〝鶴谷先生の後任〟についてはどんな思いを?

実は、鶴谷先生が生前、「お前は遅い選手の気持ちが分からない。うち(大阪経済大学)の学生をお前が見られるとは思えんなぁ」とおっしゃったことがあって。もしかしたら、それに対して「なんとかしてやるぞ」という気持ちも、就任するきっかけになったのかもしれません。

ーー報徳学園高校で初めて鶴谷先生と出会った時の印象は?

本当に優しい、ずっとニコニコされている先生なので、初めは「優しそうだな」って思ったんですよ。
でも、入部すると厳しい先生でしたね(笑)。

ーー〝愛のある厳しさ〟だったと、さまざまな方から伺いました。

そうですね。本当に温かい先生だったと思います。だからこそ、卒業した後に「先生!先生!」と慕い、訪れる選手が多かったのだと思います。本当に人望の厚い先生でした。

ーー鶴谷先生から高校3年間、どういったご指導を?

僕はずっと鶴谷先生のご自宅で寮生活を送らせていただいていたんです。なので、日々かけていただいていた言葉すべてが、僕に力を与えてくれていました。

ーー親子みたいな関係でしょうか?

今だから言えますけれど、ずっと一緒にいるので「話が長いなぁ」って思っていましたね(笑)。話し始めると、1時間・2時間がすぐに過ぎてしまうぐらいで…(笑)。本当に、大切なことを何度も伝えてくださる先生だったので。そういった熱量で学生と向き合う〝凄さ〟というのは、自分が指導者になった今、改めて感じています。

ーー当時を振り返って、印象的な言葉はありますか?

「お前は真面目そうに見えて不真面目なんだよ」と、よく言われました。今でも答えがわからないんですけど、すごく印象に残っています。
「真面目そうに見える」は、「言われたことはやるけど、そこまでだろ?」という意味で、「もう一歩先までやらなきゃいけないんだぞ」と言いたかったのかな、と僕の中では解釈しています。

ーー箱根駅伝も走って、五輪も出て、怪我とも戦って、実業団にもトライ。そして、引退を決めて、指導者としての第一歩を踏み出されたのが、2018年4月。しかし、その年の1月末、鶴谷先生の訃報を…。

先生はずっと「延命措置はせずに寿命に任せるんだ」と仰っていたことは知っていたので、先生らしいなと思いました。実は先生が病気を患われていた時、尼崎市の陸上競技場までご挨拶に伺ったことがありました。その時、痛みで動けない、歩くのもしんどいような状況の中でも、大経大の学生たちに怒鳴り散らしている姿を見て。最後まで、そういった熱い想いを持って、学生に接している先生でした。そして僕が引き継ぐからには、鶴谷先生のような気持ちを持ってやらなきゃいけないと思いました。

ーーまさに、鶴谷先生からの〝襷渡し〟。

私が大経大陸上競技部ヘッドコーチに就任したのは、先生がお亡くなりになって、しばらく期間をあけてからでした。なので、その間、鶴谷先生に思いを馳せながら「就任したからには、先生の顔に泥を塗るようなことはできないな」と、改めて指導者としての覚悟を決めていた時期だったように思います。

ーー鶴谷先生からは「お前は遅い選手の気持ちが分からない」と言われていましたが、指導を始めてみてどうでしたか?

やっぱり分かっていなかったと思います。私には走ることに対してや勝負の駆け引きについての〝勘〟が備わっていますが、競技レベルが変わってくると、そこに関してはどうしても差ができてしまうので…。
でも、精神面については、自分自身の選手時代を振り返っても「サボりたいな」と思うことがあったので…(笑)。サボろうとしている学生については「今注意してあげなきゃいけないな」と考えたりしながら、「結局は(自分も学生も)同じなのかな」と思って、日々学生と向き合っています。

実話!?鶴谷先生伝

ーー報徳学園高校と洛南高校は一緒に合宿されていたということで、洛南高校OBでありながら、報徳学園OBでもある伊東浩司さんの同級生の方が、鶴谷先生が「合宿中、電気をつけたまま寝させた」とおっしゃっていたのですが、それって本当なんですか?

本当ですね(笑)。「どんな環境でも身体を休められるようにしなきゃいけない」というふうにおっしゃっていたと思います。

ーーあと、朝起きてみんなで歌ったりとか…。

それもあります。他にも由良育英高校の合宿ではお風呂に入らせてもらえなくて、プールのシャワーを使っていたこともありましたね(笑)。本当にさまざまな経験をさせていただきました。「どんなところでも」ということで、学校にテントを張って「ここで寝ろ」と言われ、寝たこともありました(笑)。

ーーちょっと昔のバラエティ番組みたいですね(笑)。

本当にそうですね(笑)。寒中水泳なんかもありました。あと、僕の時はありませんでしたが、かつては10mの高飛び込みとかもやっていたみたいです(笑)。

ーーやっている当事者(学生)としてはどうでしたか?

寒中水泳は、須磨海岸の本当に寒い中でおこなっていたので…(笑)。普通の人では思いつかないような発想を持って指導してくださった先生でした。

ーー今のご時世では難しいことも、当時だからできたという部分もあったかもしれないですね(笑)。

そうですね。あの時代だからこそ、できたことだと思います。今は流石にさせられないです(笑)。

竹澤コーチが引き継ぐ〝鶴谷イズム〟と〝陸上への恩返し〟の気持ち

ーー竹澤さんが引き継いでいる「鶴谷イズム」はどんな部分でしょうか?

今はコロナ禍なので〝声を大きく出す〟というのができませんが、”朗誦(ろうしょう)”です。先生から引き継がれたものもあれば、学生たちが考えたものもあるんですけれども、練習前に「やってやれないことはない!」など、格言のような言葉を呟いています。

ーー竹澤さんは、市民ランナーの皆さんにもご指導されていると聞きましたが、どのようなことをしているのでしょうか?

「市民ランナー高速化プロジェクト」ですね。名前は市民ランナーの方につけていただきました。コロナ禍で「陸上競技に恩返ししていくことも大切だ」という声もあり、「僕たちにできることは何だろう」と考えたことがきっかけです。そこで、「陸上競技をより楽しんでもらえる知識を提供できるような取り組みができたら」という思いで始めました。

ーー参加した皆さんはどのような様子ですか?

速い、遅い関係なく、向上心を持った方が来てくださるので、喜んでいただけているんじゃないかなと思っています。

竹澤健介にとって〝走ること〟とは

ーー竹澤さんにとって「走ること」とは?

〝表現する〟というイメージですかね。大会などで〝準備したことを披露する〟というような。陶芸のようなイメージにも近いかもしれません。同じことをやるんだけれども、ちょっとずつ精度が高くなっていくような。そういった芸術的な感覚が、陸上に向き合う自分の中にはあるのかもしれません。

ーー竹澤さんはこれから、どんな〝指導者〟を目指したいですか?

将来の1番高い目標としては、自分以上の競技レベルの選手をみてみたいなと思っています。そういう選手たちと触れ合って、一緒に一つのものを作り上げていくというような感覚が理想です。

竹澤健介の〝大切にしている言葉〟

ーー最後に、竹澤さんが大切にしている言葉を教えてください。

報徳学園の「積小為大(せきしょういだい)」という言葉があって、「小さなことを積み上げて大きなものにしていく」という意味をもっています。そして、早稲田大学の故・織田幹雄(おだ・みきお、1905-1998)先生の「精進練磨(しょうじんれんま)」という、「努力していくこと、磨き上げていくこと」という意味をもった言葉も大切にしています。

ーーその言葉を胸に、今度は指導者として大きな花を咲かせるということでしょうか。

そうですね。何年かかるか分かりませんが、長い目で見守っていただけたら嬉しいなと思います。

ーー竹澤さんが育てられた選手を我々がインタビューさせていただける日を楽しみにしています。陰ながら応援させていただきます。ありがとうございました。

ありがとうございました。

※この内容は、「一般社団法人陸上競技物語」の協力のもと、YouTubeで公開された動画を記事にしました。

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