【陸上物語 FILE22 中島道雄】〝人間死ぬまで、青二才〟 洛南高校陸上部の父、中島道雄

アスリートの人生を訪ねて全国を回る陸上物語。今回の舞台は滋賀県南草津市。洛南高校陸上部OBの森脇健児さん、洛南高校陸上部の現・監督、柴田博之さん、洛南高校陸上部中長距離監督の奥村隆太郎さんらが崇拝する〝洛南高校陸上部の父〟、中島道雄さんにお話を伺います。およそ40年にわたって洛南高校陸上部を指導し、多くの選手たちを全国大会の常連に育てあげた中島さん。指導者としての生き様に迫ります。

【関連動画】洛南〝陸上部の父〟の半世紀に及ぶ指導者物語【中島道雄】

中島先生、お元気でしたか?

――中島先生、公園にはよく来られるんですか?

毎朝、6時20分くらいから公園を使わせてもらってます。
新鮮な空気を吸って、身体を新鮮にせなあかんからね。

――今もよく身体を動かされるんですね。

歩くことや、腕立てはよくやっていますよ。
時間が有り余ってるからね。

――他にはどんなことを?

多い時は週1回、ゴルフに行ったりもします。
何回行っても上手くならない!ゴルフは。

――ゴルフですか!スコアは?

最近はちょっと…。
あんまり良くないですね。こないだも45/46くらいかな。

――激動の陸上指導者生活から、今の生活はいかがですか?

もうたまらない!

――今年75歳になられるんですよね?

そうですね、75歳になります。

――今もやっぱり、洛南高校や大阪高校の活躍は気にかけていらっしゃいますか?

新聞やテレビでは拝見しています。
洛南高校の場合は、僕が携わっていたときよりもレベルが上がってきています。どちらかといえば、大阪高校のほうが(当時の洛南のレベルに近い)…。その子たちを、若い久保田健嗣先生(大阪高校陸上競技部顧問)と一緒に育ててゆく楽しみはありましたね。

――実は、大阪高校の卒業生の方から「ぜひ中島先生もインタビューしてください!」というメッセージを頂いています。

物好きがおるんやね(笑)。

柴田先生、こないに言ってはりましたが…?

前も一度話したことがありますが、洛南高校陸上部の初期の頃の指導者が「勝ちたい!」という気持ち一心で選手の力量も考えず、ハードな練習をさせてしまって、(陸上競技を)嫌いにさせてしまったんやね。私が洛南に就任し、共に初めて近畿インターハイの出場を勝ち取った、山田哲雄(当時、高校3年生)という選手がいたのですが、この子が練習熱心な子で…。専門が棒高跳びで、詫間茂先生(香川県立観音寺第一高等学校)のところへ、練習に参加させてもらったりしていました。

――棒高跳びを教える環境は整っていたんですか?

ないです。机を2つ置いて、その上に高跳びのスタンド置いて…。

――もしかして〝竹のバー〟ですか?

もちろん(笑)。

――前回、柴田博之先生が「高跳びをやる環境があるから」と中島先生に言われ、洛南高校に進学したら「竹を使え!」と言われたとおっしゃっていました(笑)。

それ…!この前、チラッと柴田のインタビュー見たけど、(柴田先生に)「走高跳をさせるから」ということを言った記憶は無いんやけどねぇ…(笑)。

――どちらが本当ですか!?(笑)。

いや…柴田の場合はね、身長も低かったから「この子はスピードもあるし走幅跳やな」と思った記憶があるんですよ。

――かろうじて、砂場はあった?

砂場はあった!だから、走幅跳の技術を東大阪高校(現・東大阪大学敬愛高等学校)の名指導者である、戸山隆明先生にご教授いただいたりもしました。
でも、やっぱり八女工業の合宿に行った時に、柴田が故・立石晃義先生と出会えたことが、一番大きなことやったと思います。
立石先生は当時、走高跳(女子)で日本記録を作った佐藤恵さんを指導されていて。その前も三瀦高校におられる時に、走幅跳(女子)の香丸恵美子さん(1964年東京五輪出場)、私と大学(中京大)の同級生である藤吉律子さん、山下博子(1972ミュンヘン五輪出場)さんの3人を指導されていました。走幅跳で(日本選手権を)10連勝くらいしてはるんと違うかな?それだけの名指導者です。
そんな立石先生に「走幅跳は助走と踏切が大事」ということを教えてもらって。そういう先生と出会えたことが彼にとって良かったんじゃないかなと思います。後に、柴田が8mを跳べるようになって、立石先生に「どうしたら8mをコンスタントにとべますか?」という質問をした際に教えてもらった内容は、洛南高校時代に教えた内容と同じものでした。だから、特別な技術や練習などというものは無く、やはり〝基本〟というものが大事なのだと思います。

織田幹雄さんも私と…

私が走幅跳についての知識が全くない時に、柴田に「助走を速く、高く跳べ!」って言ってたんです。でも、それを織田幹雄(1905-1998、日本の陸上選手・指導者)さんもおっしゃってて(笑)。「織田幹雄さんもレベル低いなあ」って思いながらも、「同じレベルやなあ」なんて思って…(笑)。
陸上競技は単純なんでね。やはり、基本というか、〝バタ臭い練習〟がいいんじゃないんですか。だから、今年の冬も、柴田にたまたま電話をした時、「今、合宿してます!」と言うから、内容を聞くと、木津川の河川敷で砂場を使ってトレーニングさせていました。大変でキツイらしいんやけども、それを毎年続けているみたいですよ。ですから、特別な練習方法というのは無いんだと思います。陸上競技は単純なので。そういうところが、いいんとちゃうかな。

スポーツ理論を動かすのは身体や心

――まさに、柴田先生も同じことをおっしゃっていました。今、スポーツ科学も時代と共に発展してきて、練習に対して「この練習って意味あるの?」というような子が増えてきているみたいですが、「そんなことを気にしてる奴は強くならへん!」と言ってました。

やはり、理論を動かすのは身体や心、そして頭なので。それがしっかりとできていなければ、理論もついてこないと思います。理論が先走ってしまうのは、私もあまりいいことだと思いませんね。

バーを落とすな!助走を速く、高く、遠く!

――当時、走高跳の選手は環境が整っていない中、変わった練習をしていたと聞きました。

走高跳なんてやったことがありませんでしたから、「どんなふうにするんやろ?」と、全然わからなくて。
たまたま、私の大学の1つ上の先輩に、京都の光華高校で小池先生という名指導者のもと、走高跳をされていた竹田真実さんという人がいたんです。どのように教わっていたかを聞くと、「あの木に向かって跳べ!」と言われていたと(笑)。でも、洛南高校にはそのような大きな木がなかったので、代わりに「サッカーゴールに向かって、どれだけ頭出るかやってみろ!」と…(笑)。そうしたら、2m10以上が3人ほど出まして。そのうちの1人はインターハイでも優勝してくれました。
大学の先輩である愛工大名電の石原先生から「お前、走高跳どうやって教えてるんだ」と聞かれ、サッカーゴールの練習のことを話すと、「じゃあ俺はラグビーゴールにするよ!」と。そうしたら、名電の子がその年のインターハイで優勝して…(笑)。

――例えば、その練習に〝理論〟があるとすると?

内傾だとか、後傾だとか…そんな詳しいことはよくわかりませんが…。何しろ、バーを落とさんように高く跳べばいいんですよ!

――私(本インタビュー同席、一般社団法人陸上競技物語代表理事・辻孝)の中学・高校の先輩である松原修さんが、おそらく2m13(高校記録)だったんですよね。京都高校記録ということで、どんな練習をされていたんだろうと思っていた記憶があります。

「バーを落とすな!」、それだけです(笑)。走幅跳は「助走を速く、高く、遠く跳ぶ!」ということです。

――私自身(辻)も、柴田先生が用事でいらっしゃらない時に、中島先生から「おい、辻とんでみろ!」、「もっと速く走って、バーン・バーン・バーンっ!だよ!」と教わりました(笑)。「5m・5m・5mで、15mじゃないか!」と、ご指導いただいたのですが(笑)。

指導というよりも、暴言やね、それは(笑)。

――中島先生に「(三段跳びならぬ)散々跳びだよ!」って言われたことを、一生覚えているのですが、そういった記憶はありますか?(笑)。

…ないね!(笑)。

教え子が今も尚大切にする先生の言葉

――数々の名言を生徒たちの心に刻む中、森脇健二さんが「雑巾の心」と「うさぎになるな亀になれ」、「メッキは禿げる」など、先生から教わった数々の言葉を今も教訓にされてるらしいのですが、「ボケナスビ」だけがよくわからなかったとおっしゃっていて…(笑)。

泉州の水茄子に引っ掛けたんちゃいますかね(笑)。まあ…語呂が良かったんかもね、「ボケナスビ!」っていうのがね(笑)。

人様の大切なお子様を預かっている

――怖さの中にもユーモアみたいなものを、辻さんも感じられていましたか?

(辻)私がご指導いただいていた時は、恐らく30年ほど前なんですが、怖いっていう印象はあまりなかったんですよね。

(中島さん)若い頃は僕も20代やったから、勢いでやっていたけどね。やっぱり、所帯を持って子供ができてからは、他の人はどう思ってるか分かりませんが、ちょっとずつ変わってきたかな。
やっぱり、人様の大切なお子様を預からせてもらって、その子をどつくようなことがあったとして…。それが自分の子供にもされていたらどう思うかな?とか、そういうこともチラッと考えるようになって。
…でも、時と場合によってはどついてましたね、長いこと(笑)。今はどつかないですよ!怒らないです。
特に、大阪高校で指導をしてから、どついた記憶は1回か2回くらいですね(笑)。それも、大切な行事をすっぽかして隠れとったからとか、そういう理由で。
大阪高校で指導を始めて、2年目に都大路を走らせてもらった時、洛南の先生から「(大阪高校で)どんな指導をしていたんや?」と聞かれて。「怒らない、どつかないが正解ですよ」って言ったら、「嘘、いうな!お前がどつかへんわけないやろ!」とか言われて…(笑)。
大阪高校に行った時には65歳を過ぎてましたし、本当に〝怒らない、どつかない〟、そんな指導をさせてもらっていましたね。

大阪高校を都大路、初出場へ!でも…

――大阪高校といえば、短距離が強いイメージがあり、長距離で都大路に出るなんて、全く想像もしていませんでした。大阪高校の都大路出場は、初めてだったんでしょうか?

そうやね。3回出させてもらいましたが、本来であれば、5回出てもおかしくなかったと思います。区間配置とか、そういうのを間違ってしまって(3回になってしまった)。若手の久保田先生と一緒に指導させてもらっていましたが、一生懸命、僕のできない部分、見えていない部分をフォローしてくれて…。そういう(指導者間の連携)がよかったなと思っています。

いつか大きな花を咲かせるために

高校で花を咲かせることも大事だけれど、〝もっと大きな花を、次の場所で咲かせてもらいたい!〟という気持ちは、洛南高校の時から変わりませんね。
ですから、目一杯の練習で、生徒たちはもちろんきつかったと思うんやけど、私自身は〝腹8分目の練習〟という感覚でした。次の場所に行って、より大きな花を咲かせてもらいたいという気持ちは、指導者として変わらない考えでした。
大阪高校の選手たちには、「次の場所に行ってコツコツ頑張っていたら、必ず2・3年後には、全国トップレベルの選手と対等に戦えるようになるから」と、よく言っていました。
実際に、トヨタ自動車九州に行った中平大二郎さんという選手は、5000mを13分台で走ってくれました。現在も創価大学の3年生である新家裕太郎さんという選手は、中学時代は3000mを9分58秒で走っていましたが、今年(2022)の箱根駅伝で、7区を区間4位で走り、8番で受け取った襷を、5番で引き継いでいましたよ。同じ創価大学の2年生の有田伊歩希さんという選手も、中学時代は3000mを10分30秒で走っていました。それが今、10000mを28分50秒で走っています。
ですから、コツコツやってたら、長距離は必ず結果がついてくるんです。短距離の子は、やっぱり素質も試されるので、そういうわけにもいかないことが多いと思いますが、そんな中でも、コツコツやることが大事なんでね。自分が今やれることに努力を惜しまないで、頑張ってほしいなと思います。

やれる時にできる幸せを噛み締めて

〝やれる時にできる〟ということ、つまり、五体満足で〝やれる時に自分の好きなことをやれる〟というのは、すごく幸せなことなんです。
私は今、大阪高校を退職させていただいて、時間が有り余っている状態です。皆さんは、楽やと思いはるやろうけど、時間の潰し方もわからないし、「こんなに暇なことがしんどいんか!」ということを、つくづく感じています。
だから、やれることがあるというのは、しんどくても、苦しくても、思うようにいかなくても、〝ありがたいことやな〟って思うことが、肝心なんじゃないかなと思いますね。

約半世紀の指導人生を振り返る

――先生が教員になられてから大阪高校を退任されるまで、延べ何年ですか?

洛南高校に赴任したのが27歳の時なので、洛南で38年、大阪高校で8年。46年ですね!46年間、本当にいろんな人に出会えて、ありがたかったと思っています。
指導を始めて最初の頃の生徒たちが、初めて(高校時代の)、3年間指導した子たちでした。陸上経験者が一人、あとは吹奏楽経験者、そして卓球部や野球部など、陸上以外のスポーツをやっていた子たちが2年目に出てきて、京都府駅伝で8番に入りました。2回目の時が3番。3回目と4回目が2番で、5年目で初めて京都で優勝させてもらいました。
(前述の)吹奏楽部で入ってきた子は今、大阪で中学校の先生をしてて。いい選手を育てて、洛南高校や大阪高校に送り出してくれています。ですから、人間というのは、どこで花が咲くのかわからないんです。やっぱり、コツコツやれることに幸せを感じ、感謝して、地道にやっていくことが大事なんだなと、あらためて思いますね。

鉄拳を加えなければならなかった時

――競技力が高く、五輪に出られているような選手など、さまざまな卒業生がいらっしゃると思います。ですが、中島先生は、インターハイに出ようが、国体に出ようが、「お疲れさん、ご苦労さん」という一言だけで、結果を気にされてるようなイメージがありません。結果について、指導者としては、あまり重点を置いていらっしゃらなかったのでしょうか?

重点を置いてない、ということはないと思うんやけども…。やっぱり、結果が悪かったら指導者の責任なんで、若い時はやっぱりキツく怒っていましたけどね。
でも、よく考えてみたら、生徒は一生懸命やってるんやから、怒るよりも「何が悪かったんや?どこが弱かったんや?」という部分を、諭してあげたらよかったんじゃないかと思いますね。
ただ、記録が出て自惚れるような子には、鉄拳を加えてでも、厳しく直していく必要があると思うけれど…。洛南高校で指導していた時、全国大会で洛南高校が2番になった年の前年に、5区で区間新記録の区間賞をとった子がいたんですが、生活態度があまり良くなくて、その生徒をエントリーメンバーの7人から外したことがありました。
外されたことに対しての悔しさや、憎しみもあったと思いますが、その子は我慢して、辛抱して、頑張って…次の3年生の時に、2区を走ってくれました。1区のトップ(成績)を、2区でもキープし、上位で繋いでくれて。アンカーに渡るまでトップを走らせてもらったのですが、チームのいい原動力になってくれていました。
やっぱり、記録が出たからといって、驕ったり自惚れたりして、生活態度が乱れるというのは、その子の弱さだと思います。それは、ちゃんと注意して〝ただ記録がいいから走れる〟ということだけは、しないでおこうと思っていましたね。やっぱり、みんなから「お前に出てほしい」っていわれる子を選んでいかなあかんと思うんです。

――競技力だけじゃなくて、ということですね?

はい。やっぱり、みんなが喜ばないでしょ?そうでないと。その子が運悪く、力を出しきれなかったら、みんながまた励ましてくれる。でも、もしそうでなかったら、「ざまあみろ。お前が走ったからやないか」というような罵声を浴びせられると思うしね。やっぱり、みんなが薦めてくれて、選んでくれた子が走るからこそ、その子が万が一失敗しても「また頑張ろう!」って励ましの言葉が出てくると思うんです。そういうことが、大事なんじゃないかなって思いますね。

中島先生の生い立ちから紐解く

――普通に学校に通っていても、学べないことってあると思うんです。私(辻)も入学して、陸上部に入ってから1ヶ月ほどで「やめたい」と思って、柴田先生に「やめます」と言いに行ったら、「騙されたと思って、3年間頑張れ」と言われまして(笑)。「受験勉強のために高校で勉強して、大学に進学し、そのまま社会人になるよりも、〝洛南高校で3年間頑張った〟ということが、きっとお前の人生にとって、いつかプラスになるから」と。競技を教えてもらったというより、人間性や人間力を磨くための基礎を3年間学ばせていただいたのかなというふうに感じています。そういうことは、意識されていましたか?

意識していましたね。意識の根本にある思いとしては、やはり、私自身が出来の悪い人間だったので…。
親父を小学校5年生で亡くしてから、母子家庭で母親や兄妹に迷惑をかけながら、僕だけ大学に行かせてもらって…。お金の苦労とか、親父が亡くなった後、今まで寄ってきてくれていた人がサーッといなくなってしまったりとか…そういった経験もしました。
怪我をした時も、〝やれることの幸せ〟や〝やり続けることの大切さ〟を学ばせてもらいました。僕自身も、大学を卒業してすぐに教師になれたわけではなかったので、(その中で)社会人になった時も、世の中の厳しさや人間関係の大切さを、重々学ばせていただきました。
あとは、やはり、洛南高校に入った時に、故・三浦俊良先生から「やっぱり競技も勉強も、人づくりやで」と言われていましたので…。〝人から喜んでもらえる人間になること〟、そして〝やり始めたらやり通す、やり遂げる人間になること〟。それを、陸上競技を通してでもいいし、勉強を通してでもいいから、やり続けることが大切だと思います。それだけ強い意志を持った、我慢強い人間になってもらうというのが、競技でも勉強でも、大切なことじゃないかなと思いますね。

やり始めたことをやり抜く根気強さ

人それぞれ、10できる人もおるし、8できる人もおるし、6で終わる人もいます。でも、全力尽くして精魂込めて、努力して6の子は6でいいと、私は思うんですよ。10できる人もおるけど、みんなが10できるわけではないのでね。やっぱり、人それぞれだと思います。そういう中で、まずは、やり始めたことをやり遂げる根気強さや、誠実さを身につけてもらうことが、これから生きていく中で大切なことじゃないかなと思います。

教え子、奥村隆太郎(洛南高校駅伝監督)

――この間、奥村さん(洛南高校長距離監督)にインタビューしたのですが、日体大に進学してからは怪我が多かったそうで、中島先生になかなかいい報告ができなくて心苦しかったと言っていました。「(中島先生から洛南高校長距離監督の)バトンを引き継がせていただいたからには、いい報告ができるように」とも言っていて…。インタビュー後、食事に行った際、奥村さんに目標を聞くと、「中島先生に〝優勝しましたよ!〟って言えるまで頑張りたい!」と言っていて。僕(辻)より一回り年下なのですが、奥村さんもしっかり中島先生の思いを受けとめてくれてるんだなって思いました。

今の洛南高校は、中学時代に全国トップレベルの成績を残した選手が多くきていることもあって、すごい記録を出している選手が多いので、大変だと思います。
(選手を)強くして当たり前ですから。弱くしてしまうことの責任というのは、やはり指導者にあるので。「この子を潰してしまったらどうしよう」とか、「この子を伸ばしきれなかったらどうしようか」というプレッシャーは、本当に大変だと思います。
私が担当していた時も、全中の800mで優勝した生徒が来てくれたのですが、「この子を潰したらどないしようか…」と思いました。でも、結局はインターハイに出たぐらいで…。全中で優勝したけれど、入賞もしなかったと思います。潰してしまったのと同じだと思うんですが、その子は早稲田大学に進学して、3000m障害をやったり、箱根駅伝を走ってくれたので、少しは気が晴れたという気持ちですが…。レベルの高い子が来てくれるのは、ありがたいことなのですが、プレッシャーもそれだけ強い。苦しい思いもします。そんな中で、よく奥村は頑張ってくれていると思いますよ。

――(中島先生の時代とは)また違った環境なんですね。

そうやね。育てあげる苦しさもあるし、いい選手をより伸ばすという苦しさもありますからね。レベルは違うかもしれませんが、そんな選手を抱える状況になったことがないので、あまりわからないですけれども…。やっぱり、いい選手が来れば来るほど、苦しさやプレッシャーは、普段以上に強くなると思います。その中で、よく耐えて、頑張ってると思いますよ。

46年の指導者人生、原動力は?

――46年間の指導者人生、どういったところに楽しさを覚えていましたか?

やっぱり一番は、子供たちが記録を出してくれた瞬間ですかね。(子どもたちが)笑顔でいてくれる姿を見ていることが楽しみでした。…なんで続けてこれたんやろね?(笑)。

――西脇高校、そして大東文化大学を卒業された濱矢さん(1988年神戸インターハイ(1500m)チャンピオン)、そして先日のインタビューでお会いした、竹澤健介さん。
濱矢さんは、西脇高校と洛南高校は全く繋がりがないのに、中島先生が「おい、濱矢!」と、声をかけてくださったことが、いまだに記憶に残っているとおっしゃっていました。また、竹澤さんも、インターハイ前に中島先生から亀岡の治療院をご紹介いただいて、インターハイで入賞できたと…。「私が早稲田に行けたのは、実は中島先生のおかげなんです」っておっしゃっていました。

いやぁ、そんなことはない!(笑)。

自分を成長させてくれる存在がライバル

――濱矢さんのお話を聞いた時も、洛南高校に留まらず、中島先生が他校の生徒に声をかけて「頑張れ!」とおっしゃっていたということをお聞きしました。

〝ライバルは敵だ〟とよくいわれますが、それは違うと思うんです。ライバルがいてくれるから、自分も頑張れるじゃないですか。自分を成長させてくれる人間が、ライバルだと思います。ですから、ライバルを大切にしないと。ライバルだといっても、高校が違うだけで、自分の子どもみたいなもんじゃないですか。
人それぞれ、ライバルが憎いとか、そんなことを考える時もあると思いますが、自分を成長させてくれる存在がライバルなので。大袈裟な言葉でいえば、誰もが自分の子どもみたいな存在です。自分の学校の部員のように心を寄せ、苦しんでいたら助けてあげる。そういう気持ちは大切だと思います。ライバルやから敵だとか、そんなのとんでもない話。

――そういった捉え方は、中島先生ならではなのでしょうか?

いや、ほとんどの指導者がそのように考えてると思いますよ。他校の生徒さんに遠慮して、他の先生方はおっしゃらなかっただけだと思います。
僕は別に他校の先生だから、というのは考えていませんでした。この前も洛南高校OBの轟さんの知り合いの方から聞いたのですが、よその学校の子に「ラストで力抜いたらあかんやろ!」って僕が怒ったことがあったみたいなんです。僕は記憶にないんですけど、他校の生徒さんが僕に怒られたという話を聞いたことあるんですよ。
やっぱり、陸上競技を一生懸命やっている子には、よその学校の子であっても、少しでも強くなってほしいですし。頑張ってほしいなと思うので、ついそういうことを言ってしまうのかも知れません。

社会の変化で変わるもの、変わらないもの

――昨今は、陸上に留まらず、隣に住んでいる人の顔や近隣に住む子どもがどういう状況に置かれているのかわからない世の中になってきていますよね。やっぱり、昔とは違うんでしょうか?

昔とは違いますね。「これ、たくさん作ったから食べてくれる?」と、近隣の方がおかずを持ってきて下さったりとか、昔はそういうことがあって、近隣の方同士のコミュニケーションがありました。今は核家族世帯の増加に伴って、そういった交流というのは少なくなってきているように感じますね。だから、助け合いの精神というのが、ものすごく希薄になってきているような気がしています。
選手の人間性についても、みんなに喜んでもらえるような選手にならなければ意味がないと思いますし。偏差値だけで、人生歩んでいけるわけじゃないんでね。やっぱり、人様の手を借りて、支えていただいて、初めて自分というものが存在するんだと思うんです。そういう指導を、小さい時から受けている子どもが少なくなってきているんじゃないかなと感じます。

確かに、〝自分は自分〟でいいんやけども、その〝自分〟を支えてくれる人がおるからこそ、〝自分〟という存在があるので。そういうことを、もっとしっかり教えていかなければならないと思います。
まして、人間というのはこの世界中、そして地球上で、もっとも弱い動物です。いろんな人の手を差し伸べてもらって、支えてもらって、初めて人間という生き物が存在するわけですから。独りでは、生きていかれへんからね。やっぱり、そういったことを、もう少し小さい時から、家庭教育や学校教育を通じて教えていくべきだと思います。
そういう心が薄くなっていくと、簡単に人を殺したり、自分独りで死ぬのが怖いから、道連れにしてたくさんの人を巻き添えにしたり…そういった事件に繋がってしまうのではないかと思っています。やっぱり、助けて、助けられてということが、一番大切なんじゃないかなと思います。

「人」をつくっていくのが、指導者の仕事

――〝競技者をつくる〟というよりも、〝人をつくる〟というイメージでしょうか?

そうやね。最初の頃は、勢いに任せて指導していましたが、故・三浦先生に怒られて、怒られて…。やっぱり、何のためのクラブ活動や勉強なのか、と考えたら、〝人間性を高めていくこと〟、〝他人に喜んでもらえる人間になること〟、〝世のため、人のために尽くせる人間になること〟だと思います。そのための手段として、勉強があったり、クラブ活動があるというふうに考えています。

いつまで経っても“青二才”

――ちょうど10年前に、中島先生が洛南高校を退任される時、京都のホテルで「中島道雄卒業式」がありましたよね。卒業生(陸上部OB)も300人ほど来られていました。その時、先生が最後の挨拶をされる際、「私みたいな青二才のために」とおっしゃられていたのが、印象に残っています。65歳で、300人もの人が集まる前で、〝青二才〟っておっしゃられたので、「いったい僕らは何歳になって、どんなことをしたら、一人前になれるんかな?」と思って…。中島先生は、河川敷でゴミ拾いをされていたり、何歳になっても変わらないじゃないですか。そういった〝中島道雄の人間形成〟はいつからできたんでしょうか?

そんな、他人に褒めてもらえるような人間性はないと思います。本当に。いつまで経っても、青二才ですよ。

――死ぬまでですか?

はい。パーフェクトな人間なんて、いませんから。自分ができることを10できる人は、10やったらいい。なんぼやっても8しかできない人は、その8の中で何をするかということが大切です。
例えば、ゴミ拾いしかできなかったら、ゴミ拾いでもいいんです。やはり、人から少しでも「ありがとう」という言葉もかけてもらえたり、人にちょっとでも喜んでもらえたらなと思います。あくまでも、結果や評価をあてにするのではありませんよ。自分自身が「今日もゴミ拾いさせてもらったな、ありがたいな」と思えるかどうか。
自分にできることを誠実に、一生懸命にやればいいんじゃないかなと思いますね。6しかできない人に、10のことをやれというのではなく、6の人は6のやれることをやったらいいし、10の人は10のやれることをやったらいいと思います。

――手を抜いて、10できる人が8のことをやっていてもダメだということですね。

あかん!それは、絶対ダメ!

――いつまで経っても青二才…。確かに、10年前の自分と今の自分を比べても、大して変わっていないようにも思います。やっぱり、「まだまだ、青二才」って素直に思えます。あと30年経っても、同じように思ってるものでしょうか。

そう思うことが謙虚な心を作るし、一番大切なことを忘れないでいられるんじゃないかなと思います。
つい、「俺がやったからや!」とか、思ってしまいがちですが、みんなのおかげで出来ているんですよね。〝生かしてもらっている〟ということを忘れなければ、それでええと思います。

教え子、森脇健児の「素直・謙虚・感謝」の根源

――森脇さんがよくおっしゃるんですけど、「素直、謙虚、感謝」は健児さんが生みだしたんですか?

それ、覚えてないねん。本人ちゃう?(笑)。

――森脇健児さんは中島先生にとって、どういう教え子ですか?

秋田のインターハイの時、ホテルに芸能人がいたんですが、その方がものすごく威張っていて。「お客さんがあってこその芸能人やろ!」と健児に言ったことは、覚えていますね。支えてくれる人、応援してくれる人がいて、自分があるんだという意味で、健児に伝えたと思います。応援してくれてる人だけでなく、みんなを大切にせなあかんと思いますね。

高岡寿成ぐらいやろな…

――よく聞かれると思うんですけど、教え子が五輪に出て、日本記録を作ったりすることは、先生として、やっぱり嬉しいものですか?

嬉しいですよ、やっぱりね。
高岡寿成は、何年ぶりかに五輪のトラック競技で入賞してくれて。怪我が多い子でしたが、高校時代は3年間、駅伝で走ってくれて、最後の年には、二番までいってくれて…。
彼は今も陸上競技に携わって、指導の厳しさや苦しさを存分に味わっていると思いますが、今年から日本のマラソンのヘッド(日本陸連強化委員会シニアディレクター)になって。日本のマラソンの復活を期待されていますよね。
まあ…あの子くらいやろうな。(人間性が)極端に変わった子はいませんが、高校時代から今に至っても尚、人間性が変わらない子というのは。あれだけの日本記録を打ち出したり、活躍しても、高校に入った時から卒業するまで、そして現在も人間性が変わっていない。そういうところも、すごいなと思います。やっぱり、お父さんとお母さんの育て方が、よかったんやと思います。

やり遂げた=ゴールではなく、スタート地点

――「横柄になるな!」と、先生はよくおっしゃていた気がします。それは、「記録が出たり、インターハイで勝ったりして、横柄になったあかんよ」という意味でしょうか?

〝戒め〟ですね。つい記録が上がってきたら、怒りたくても怒れない状況になったりすることもあるのでしょうが…。やっぱり、終わってほしくないので、まだ。一歩でも2歩でも、上にいってほしいと思っていますから。
辿り着いたところがゴールではなく、スタート地点なんです。そういう気持ちを忘れないでほしいなと思っています。頑張ってやり遂げたということは、ゴールではなく、スタート地点なんです。そういう気持ちを忘れないでほしいなと思っています。

中島先生から、教え子たちへの切なる願い

――指導者生活46年間、1学年、平均50人だとしたら、2000人ほどの教え子がいらっしゃいます。何か、教え子たちへの期待はありますか?

まず、健康!家庭を持ってる人は、家族仲良く。お互い、感謝の気持ちを忘れず、みんなに感謝しながら生活してもらいたいなと思います。まぁ、一番できてないのは、私ですけどね(笑)。

――健康、感謝…なるほど!

やっぱり、健康が一番大切です。洛南高校陸上部のOBの子でも、病気で亡くなったり、自ら命をたってしまった子もいます。そういうことが無いためにも、やっぱり、健康が一番です。

――心身の健康。親より先に死ぬな!というような感じでしょうか?

うん。それが、一番親不孝やからね。

――〝人生で大成するために〟みたいなことって、先生はあまりおっしゃらなかったと思うんです。大金持ちになれ!とか、立派な会社でいい役職につけ!とか…。社会人になった教え子に対しても同じような気持ちで思っていらっしゃいますか?

一緒ですね。やっぱり、みんなから喜んでもらえる存在であることが大切です。社員であっても、係長であっても、課長であっても、同じです。嫌われてたら、どうしようもないからね。やっぱり、喜んでもらえる人間性を身につけてもらいたい。〝奉仕の心〟とか〝雑巾の心〟とか、他人が嫌がることをできる人間になってもらいたいなと思います。みんなが、「何がなんでも、あんたに社長になってほしい!」って言ってもらえるような人間になってもらいたいんです。そのためにも、一番は健康やね!

――Everyday Sundayでおさまらず、中島先生、新しいことにも是非!

今度会うときは、杖ついて…(笑)。

――毎日、誰か来るようにしましょうか(笑)。いつまでも、お元気でいてください。離れていたり、仕事が忙しくて、なかなか先生に会えない卒業生もたくさんいると思うので、今日のメッセージが卒業生のみんなに届いたらいいなと思います。

いい機会をいただいて、どうもありがとうございました。

※この内容は、「一般社団法人陸上競技物語」の協力のもと、YouTubeで公開された動画を記事にしました。

陸上物語の情報はこちら!

一般社団法人 陸上競技物語 公式サイト

Twitter

この連載の他の記事

【陸上物語FILE 6 村上幸史】 日本陸上界のレジェンドが引退前に語った陸上物語

© 株式会社rtv