憧れ、苦楽重ね…特急かもめとともに“引退” JR九州車掌 秀島暢一さん(65)最後の乗務

特急かもめの最後の乗務で、車内に忘れ物がないか確認する秀島さん=長崎市尾上町、JR長崎駅

 JR九州の秀島暢一さん(65)=長崎市=は国鉄職員時代から四十数年、博多-長崎を走る特急かもめの車掌を務めてきた。西九州新幹線開業に伴い特急が廃止されるため退職を決意。廃止前日の21日、最後の乗務を終えた。
 憧れたかもめの車掌になったのは1970年代後半、23歳頃だった。休日に先輩の車内放送をカセットテープに録音するなどして接客の腕を磨き、100人以上いた長崎車掌区で最も若かったので「かわいがってもらった」。国鉄最後の「ヨンパーゴ(485)系」車両は重量がある分、スピードは出ないが揺れが少なく、空調のボタンを乗客が押せる車両もあった。
 87年の分割民営化で職場の空気はがらりと変わった。例えばキセル(不正乗車)への対応。以前は「ガツンと言っていた」のが、顧客サービス重視のJRになると言葉遣いがソフトに。平成に入ってすぐ、長崎初登場のハイパーサルーン(783系)の1番列車に乗務。当初は9両編成と長い上、通路のドアが多く車内の移動に時間がかかった。近未来的なデザインで注目されたのとは裏腹に「車掌泣かせ」だった。
 来県した秋篠宮ご夫妻が乗車された折は、こわもての護衛官を説得し「失礼のないよう」に貸し切りの車内に入って室温確認。下車する紀子さまから「車掌さん、おつかれさまでした」と声をかけていただいた。
 2003年、諫早市内であった落石による脱線横転事故はニュースで知った。33人が負傷。奇跡的に死者を出さなかったとはいえ、「人命の重み、救助の重要性を感じた」という。大雪で途中動かなくなり、長崎から博多に着くまで約14時間かかったこともあった。
 17年前のこと。列車事故で確認のため車外に出た際、足を滑らせ側溝に転落。必死によじ登って車内放送や会社連絡を済ませた後、気を失った。肋骨(ろっこつ)8本が折れ、肺を突き破っていた。医師からは無理と言われたが7カ月後に復帰。以来、コルセットを着け、痛み止めを飲み続けている。
 そこまで仕事にこだわったのは鉄道が好きだから。お年玉できっぷを買い、働くようになってからも休日は列車旅行。かつて特急かもめが京都-長崎を走っていた頃のキハ80系車両には、父が乗せてくれた。食堂車もあり「こんな高級な汽車があるのか」と小学生の心に深く刻まれた。旅程は忘れたが、発着時刻は今でも覚えている。
 定年後も嘱託として6年勤務。長崎での在来線特急車掌の業務がなくなるのを機に「ずっと心配をかけた妻にそろそろ孝行しようか」と考え、かもめと一緒に引退することにした。
 21日、自身にとっての“最終列車”を降りた秀島さんは笑顔だった。「これからは利用者として『かもめ』と長く付き合っていきたい」


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