日中戦争前夜、東京朝日新聞初の女性記者が訴えた「相互理解」の大切さ  一触即発の危機ささやかれる今こそ考えたい 竹中繁の人生(前編)

By 江刺昭子

 日中国交回復50年だというのに、最近の日中関係は危うい。沖縄の尖閣諸島周辺では一触即発の危機さえささやかれている。そんないま、かつての日中戦争の戦前期に、日本の大陸侵略に警鐘を鳴らし、双方の国のメディアでペンを振るった日本人女性のことを思い起こしたい。その人の名は竹中繁(しげ)。東京朝日新聞社で初めての女性記者である。

ブラックマーホーム時代と思われる洋装の竹中繁

 戦前、欧米のフェミニズムに影響を受ける女性が多いなかで、隣国の中国に関心を向け、相互理解と連帯を求めた竹中の足跡は、今こそ見直されるべきだろう。(女性史研究者=江刺昭子)

 1875年、東京・神田淡路町で生まれた。父親は司法省の役人で、娘に英語を身につけて自立するよう早くから促した。ときは鹿鳴館時代、小川女子小学校には英語の授業があり、基礎から厳しく教えこまれた。同校生徒300人中、ただ1人、祖父に買ってもらった洋服で通学したという。
 次いで麹町に開校したキリスト教系の桜井女学校(のちに「女子学院」に名称変更)に進み、外国人教師に鍛えられて英語力をより確かなものにしたことが、彼女の職業生活を支えることになった。
 女子学院高等部卒業後の2年間は神戸で幼稚園の教師を務め、帰京して、外国人宣教師が経営する私塾のブラックマーホームに勤めた。
 ブラックマーホームには寄宿舎もあり、地方からの女学生も学んでいた。この頃のものと思われる帽子をかぶった洋装の写真が、のちに移り住んだ千葉県市原市鶴舞の隣家の女性に譲られている。
 ブラックマーホームに英語を習いにくる大学生の1人に戦後首相になる鳩山一郎がいた。竹中は鳩山と恋愛関係になり、1907年、未婚のまま男児を出産した。鳩山家は慌てて親戚の寺田薫子との婚姻をととのえた。
 赤ん坊は女性たちの連携で養子に出され、竹中は養家に養育費を送り続けた。老年になって初めて子や孫の訪問を受けている。
 竹中は、尊敬する矢島楫子(かじこ)が校長を務める女子学院で再出発する。英語教師兼舎監であった。矢島が会頭である日本基督教婦人矯風会でも献身的に働いた。そして1911年、『東京朝日新聞』の記者に転じる。
 平塚らいてうらが『青鞜』を創刊した年である。女性たちが声をあげ始めた時代で、在京の新聞社にも各社1人か2人、女性記者が働き始めていた。だが、男性ばかりの職場で女性にとっての労働環境は劣悪だった。ほとんどが短期間で辞めている。

東京朝日新聞記者として活躍していた1919年頃の竹中繁

 竹中は長く記者として働いた。男性記者たちと顔を合わせないよう、デスクを窓に向けて設置していた。それで「窓の女=マドンナ」というあだ名がついた。いつでも、どんな場所にも取材に行けるようにと、常に地味な和服に黒い羽織姿だった。
 その能力は折り紙つきで「学芸部長にしては」という声があったほどだという。
 例えば1916年8月6日から5回連載の「女が観た私娼」は、警視庁の私娼取り締まりにあわせて、東京の私娼の実態を詳しくルポしており、事件記事の多い紙面で異彩を放っている。同じ紙面には夏目漱石の「明暗」が載っている。
 しかし、女性問題が真面目に紙面で扱われることはほとんどなく、外に出て女性運動を支援するようになる。女性を政治から排除し、政治演説を聴くことさえ禁じた治安警察法第5条の改正を要求して、19年に市川房枝・平塚らいてうらが新婦人協会を起こしたときは、出発時から会員となり、市川とは終生の同志になった。
 女性記者や活動家たちのネットワーク作りにも力を注いでいる。最初は、矢島の応援を得て15年、婦人記者倶楽部をつくり、これは日本婦人記者倶楽部に発展した。
 28年、朝日新聞社内に組織された「月曜クラブ」も竹中が中心となった。女性記者だけでなく、市川、神近市子、平林たい子ら女性活動家や文学者の情報交換の場にした。
 竹中はさらに、満州事変が勃発した31年、中国を知ることを目的とした一土会(いちどかい)を立ち上げ、講演会を催したり、在日中国人との交流をはかった。
 女性記者や女性文化人たちのネットワークをつくり活動することが、中国との交流につながっていく。その足場は、政治や軍事、外交を操る側ではなく、常に女性や民衆の側にあった。
 わたしは『女のくせに 草分けの女性新聞記者たち』(85年、文化出版局刊、97年増補新版、インパクト出版会刊)を書いたとき、『尾崎秀実(ほつみ)伝』の著者で竹中の親戚筋にあたる評論家、風間道太郎に話を聞いた。
 尾崎秀実は有名なスパイ事件・ゾルゲ事件に連座して刑死した人。26年に東京朝日新聞社に入社し、机を並べた竹中との接触によって中国問題への関心と中国民衆への同情を深めたのだという。それがスパイ活動につながっていった。

1926年から27年の中国旅行のとき、広東の黄埔軍事政治学校で。右から7人目が竹中繁、8人目が同行した服部升子(『女性記者・竹中繁のつないだ中国と日本 一九二六~二七年の中国旅行記を中心に』より)

 西洋文化に親しんで育った竹中が、中国に関心を寄せるきっかけは、23年の中国旅行だった。大阪朝日新聞社が主催した婦人支那視察団に世話役として参加し、現地の女性たちとの交流を期待したが、婦人会などへの訪問は拒否された。
 第1次世界大戦中に、日本が自国の権益拡大のため対華21か条を要求して中国の反発を買ったからだった。また、関東大震災時に、留学生で社会運動家の王希天や中国人労働者が軍隊に殺される事件もあった。
 竹中の胸に、中国の女性たちと対等の立場で話しあい、理解したいという思いがふくらむ。中国国民党が北方軍閥政権の打倒を目指した「北伐」の途上で政情不安定な中国に、危険をかえりみず飛び込んでいった。(後編に続く)

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