日中戦争前夜、自宅を中国人留学生向けの下宿として開放 求めたのは「お互いが信じ合うこと」 一触即発の危機ささやかれる今こそ考えたい竹中繁の人生(後編)

By 江刺昭子

 日中の戦争を危惧し、回避のためにペンを振るった女性記者、竹中繁(しげ)。彼女の中国行きは、前後3回に及んでいる。1923年の最初の旅行がもの足りなかった竹中は、東京朝日新聞社で勤続15年になる1926年、社に中国旅行を願い出た。(女性史研究者=江刺昭子)

1926年から27年にかけての中国旅行中にあつらえた中国服を着用、前列右が竹中繁、左が服部升子。時期と場所は不明

 編集局長の緒方竹虎に「金か時か」と問われ、お金もほしいが時間が大事だと答え、半年近い中国視察旅行の許可を得た。
 長いあいだ、北京と奉天で女子教育に従事し、帰国してからは中華女子学生寮の舎監をしている服部升子(ますこ)が同行することになった。当時の女性としては、中国通の第一人者である。
 会社の許可を得たとはいえ、社の派遣ではなく、費用は自分持ち。最低の費用で歩けるだけ歩こうと、9月26日、2人は大陸へ旅立った。大連を振り出しに南北満州の各地をめぐり、北京、天津、上海、南京、漢口、香港、広州などを訪ねて翌27年2月末に帰国している。
 この半年近い旅日記を記した手帳、戦後、書きかけて未発表の旅行記、友人知人からの書簡などが遺族の元に残されている。旅行中、また帰国してから日中双方の新聞や雑誌に寄稿した文章も多数ある。
 これらの資料をもとに山崎眞紀子・石川照子・須藤瑞代・藤井敦子・姚毅が共同研究をして『女性記者・竹中繁のつないだ近代中国と日本 一九二六~二七年の中国旅行記を中心に』(研文出版、2018年)にまとめている。また、評伝として香川敦子の『窓の女竹中繁のこと 東京朝日新聞最初の婦人記者』(新宿書房、1999年)もある。本稿はこれらの成果によるところが大きい。
 この旅行では、服部の希望もあって100校以上の教育施設をはじめ、工場、孤児院などの社会施設を訪問し、孫文の妻の宗慶齢、康仲凱の妻の何香凝、中国婦女協会の熊希齢ら多くの女性指導者やジャーナリストに面会し、女性の立場について意見を交わしている。
 その紀行は『東京朝日新聞』や雑誌の『婦人』に掲載され、31年に新聞社を退職してからは、中国の新聞雑誌に日本女性を紹介する記事を24篇、日本の新聞雑誌に中国女性に関する記事を42篇寄稿している。
 つまり、双方のメディアにリポートすることによって相互理解と連帯を深めようとしたのだ。
 中国の『婦女雑誌』、『国華報』などへの寄稿は、日本の産児制限運動、鉱山労働婦人の現状、職業婦人調査など、日本女性がおかれている現状をデータで示しながらの紹介が多く、ジャーナリストらしいリポートといえる。
 一方、日本の『婦人』や女性参政権の実現を目指す「婦選獲得同盟」の機関誌『婦選』には、共産党が優勢な中国の近況報告に加え、中国の女子教育、職業問題、女性の権利獲得運動などについて述べながら、戦争へと向う動きを憂慮している。
 『婦選』32年7月では「支那婦人の進出」と題して、日本と比較しながら中国女性の解放への期待感を示した。
 「旧時代の支那婦人が、一度び教育によって自由の空気を味い、再び革命の潮に乗って人間としての権利の回収を許された時(略)大陸において放たれた翼は、日本のような社会組織の島国にせせこましく動くのとは違って、機会と共に思い切り暢(の)びやかに健やかに成長するであろうことを誰が辞(いな)めましょう」
 一方で「満州事変」を「事変と称(とな)えるには余りにも重大である」と述べ、まかり間違えば「第二の世界戦争」になるのではないかと危惧している(「魂を入れかえて各自の立場を認識し重大時期を感得せよ」『婦選』32年1月)。
 中国に詳しい知識人さえ「あの国の国民は、自分達の生活の安定さえ得ていたならどこの国の人が来て国を治めようと、そんな事は頓着しないのですよ」などと言うが、それは「時代錯誤であり、軽率であり、乃至(ないし)は危険でさえある」と非難。「中華民国の到る処(ところ)で出会わした、彼らの骨髄に徹した恨みの記念や、肺肝を衝(つ)いて出る、不平等待遇に対する怨嗟(えんさ)の声を、見聞きした経験が記憶に泛(うか)び出ます」と、強い調子で述べている(「認識不足を耻(は)じよ」『婦選』32年4月)。
 そうして「今度の事変で滅茶々々に男が破壊した中華民国人の感情の堤を、女がせっせと修理していかなければならない」(「魂を入れかえて…」)と女性が立つことを促している。
 持論をメディアに発表すると同時に、退職後は(上)で書いたように、中国を深く知るために一土会(いちどかい)を組織した。

1932年、竹中の家で開かれた中国人留学生たちとの食事会、後列左が竹中繁

 また、世田谷に建てた家を洋風にしつらえ、中国人留学生の下宿にした。「部屋代に困ったら延ばしてもいい、へらしてもいい。おいしい料理の出来た際は、一しょに食卓を囲んでもいい」「ただ、おたがいが悪意を持たないこと、信じ合うこと、それだけは守ろうと誓ったのです」(東京新聞「私の人生劇場」)
 しかし、竹中の願いはかなわず、37年、日中は全面戦争に突入した。40年2月、市川房枝に誘われて、3たび中国に足を運んだのは、わずかでも希望を見つけたかったのかもしれない。2カ月間、上海、南京などをまわったが、軍部が関わったこの旅では、前回会った女性リーダーたちとは面会できず、旅の記録はほとんど残していない。『市川房枝自伝 戦前編』(新宿書房、74年)に旅程があり、市川は対敵放送にかり出されたりしたことから、「重い心を抱いて」帰国したと書いている。
 翌41年、竹中は交通不便な千葉県市原郡鶴舞(現、市原市)に隠居し、表立った活動から身を引いた。

千葉県市原市鶴舞の竹中宅を訪れた市川房枝(右)と竹中繁

 戦後は、近所の子どもや女学生に英語を教え、女性の政治参画を進める日本婦人有権者同盟に地域の主婦たちを巻き込んで、市川の政治活動を支援した。
 竹中は「私の人生劇場」の最後を、周囲の人びとへの感謝と、「私は劇場の黒衣(くろご)の見習いぐらいの者ですから」という言葉で締めくくっている。(終わり)

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