テクノが時代を動かした!YMO「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」の原点はどこ?  坂本龍一、高橋幸宏が賛同した細野晴臣の “構想”

「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」誕生の背景

1979年9月25日、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』が発表された。

『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は文字通りYMOを “世に知らしめた” 作品であるとともに、テクノポップという概念を生んだ世界的名盤。このアルバムについての解説も多く書かれているので、詳しくはそちらをチェックしていただくとして、ここではこのアルバムが誕生するまでの背景について簡単に振り返ってみたい。

イエロー・マジック・オーケストラの出発点は1975年にリリースされた細野晴臣のセカンドアルバム『トロピカル・ダンディー』に見ることができる。

はっぴいえんど(1969~1973年)の解散後、細野は新たなオリジナリティをもつ音楽スタイルを模索していた。はっぴいえんど自体が “日本語のロック” というコンセプトを掲げて、単なる欧米のロックのモノマネではない日本のロックとしてのリアリティを追求したバンドだった。その解散後も、細野はキャラメル・ママ(細野、鈴木茂、松任谷正隆、林立夫)、その発展形態であるティン・パン・アレイで洗練されたサウンドづくりにトライすると同時に、ソロアーティストとしてそのコンセプトを追求し続けていったのだ。

はっぴいえんど解散のタイミングで発表されたファーストアルバム『HOSONO HOUSE』は、ソロアーティストとしての自己点検ともいうべきプライベート色の強い作品で、録音も細野の自宅で行われた。

それに対してセカンドアルバムの『トロピカル・ダンディー』では “トロピカル” =エキゾティシズムというコンセプトが打ち出されている。収録曲にもトロピカルイメージやオリエンタルムードを感じさせるものが多い。

けれど、この “トロピカル” とは、単なる南国趣味ではない。そこには細野晴臣の “戦略” があった。

細野晴臣の戦略とは?

細野が注目したのは、ハリウッド映画に代表される “トロピカル(エキゾティシズム)” だった。そこで描かれているのは “西洋的価値観” に立ったフィクションの “南国” や “東洋” であり、その実像とはかけ離れた “異国趣味” の産物だ。

だから、ハリウッド映画で描かれる “日本” も、とてもリアルとは思えないものだった(さすがに最近ではだいぶ改善されてきた感じもするが)。

細野晴臣は、日本人(東洋人)として西洋至上主義の “独善的エキゾティシズム” に抗議するのではなく、あえてその “世界” に入り込んでみせることで価値観を逆転させてしまう… という“返し技”だった。

西洋的価値観でゆがめられた “エキゾティシズム” の世界を面白がって見ているつもりでいるうちに、実はその作品に自分が見られている。そんな批評精神をもったポップミュージック。それが細野晴臣の “トロピカル” のコンセプトだった。

注目すべきなのは、この時点ですでに細野の視野には、国内だけでなく海外のリスナーがターゲットとして捉えられていたことだ。

細野晴臣は、サードアルバム『泰安洋行』(1976年)でそのコンセプトをさらに推し進め、独自のオリエンタルテイストにあふれたユニークなポップミュージックへのアプローチを深化させていく。しかし、その作品はディープな音楽ファンには高く評価されたけれど、一般的には “趣味性の強い特殊な音楽” と見られることが多かった。

坂本龍一、高橋幸宏が賛同。固められたYMOの構想

それでも細野晴臣はそのコンセプトをさらに具体化させていく。4枚目のソロアルバム『はらいそ』(1978年)ではアーティスト名義を “ハリー細野とイエロー・マジック・バンド” となっているが、これは『トロピカル・ダンディー』で打ち出した “トロピカル” を、よりストレートに “イエロー・マジック” として、それをバンドの形で表現していく… という姿勢の表明だった。

ちなみにこの “イエロー・マジック” とは、邪悪な呪術を表わす “ブラック・マジック(黒魔術)” のもじりで、“(西洋に向けられた)東洋の呪術” というニュアンスが込められた造語だ。なお、細野晴臣はこれ以前に、ティン・パン・アレイのセッションアルバム『キャラメル・ママ』で「イエロー・マジック・カーニバル」という楽曲を提供しているが、これが “イエロー・マジック” という言葉を使った最初だったと思う。

『はらいそ』も必ずしも大きな反響は得られなかったが、この “イエロー・マジック・バンド” の構想こそがイエロー・マジック・オーケストラの原型だった。

事実、このアルバムには坂本龍一、高橋幸宏が参加しており、細野晴臣は3人が揃った「ファム・ファタール」という曲のレコーディングの時にYMOの構想を伝え、彼らの賛同でメンバーが決まった。

アルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」に込めたコンセプト

細野晴臣が示したコンセプトは、1950~60年代のアメリカでもエキゾティックサウンドで一世を風靡したマーティン・デニーのヒット曲「ファイアー・クラッカー」をシンセサイザーを駆使したディスコサウンドでカバーして世界でヒットを狙う―― というものだった。

そのヒントとなったのは、『アウトバーン』(1974年)でシンセサイザーによる魅力的なポップサウンドを聴かせて世界的に知られるようになった西ドイツのエレクトロニクスグループの “クラフトワーク”、そしてドナ・サマーの「アイ・フィール・ラブ」(1975年)など、シンセサイザーによるディスコサウンドで一世を風靡したイタリア人プロデューサーのジョルジォ・モロダーだった。

クラシカルなエキゾティックサウンドをエレクトロニクス・サウンドによるインストゥルメンタル・ディスコサウンドに変身させて世界に打って出る。

―― YMOのファーストアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』は、そのコンセプトがストレートに反映されたアルバムだった。文字通りエレクトロニクス・ディスコサウンドになった「ファイアー・クラッカー」をはじめ、細野のエキゾティック色の強い楽曲、さらにはまだ黎明期だった「インベーダー」などのコンピュータゲームのサウンドを取り入れた楽曲など、今聴くと実験的イメージの強い楽曲が目につく。

しかし、アメリカのA&Mレコードのプロデューサー、トミー・リピューマがこのアルバムを気に入ったことで、名エンジニア、アル・シュミットのリミックスにより1979年5月にアメリカで、6月にはイギリスでもリリースされることになる。さらに、8月にはロサンゼルスでザ・チューブスのオープニング・アクトという形だったがライブ・デビューを飾り、大きな反響を得た。

もちろん、このアメリカ、イギリスでの反響は日本にもフィードバックされ、YMOへの関心は一気に高まっていた。

そんな最高の状態だった1979年9月にリリースされたのがセカンドアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』だった。

テクノポップとして実現した細野晴臣の夢

細野晴臣のコンセプトが強く感じられたファーストアルバムに対して、このアルバムではコンセプトがよりモダンに消化され、3人のアンサンブルも、よりバンド的なダイナミズムとドライブ感を感じさせ、新鮮なポップアルバムというニュアンスが強くなっていった。

収められている楽曲も、細野2曲、坂本2曲、高橋2曲、坂本と高橋の共作1曲、そしてビートルズの「デイ・トリッパー」のカバーと、音楽性の広がりも感じられた。

難しいことを考えなくとも、心地よいエレクトロビートに体を委ねることで、それまで味わったことのない心地よい感覚に浸ることができる。『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は、まさに新しい時代を拓く革新的ポップアルバムとして、アルバム年間売り上げ1位という大ヒットを記録した。

そして10~11月にはYMOとしての初のワールドツアー(イギリス、フランス、アメリカの計11公演)を成功させた。

当初は細野晴臣の “夢物語” に過ぎなかった “トロピカル” “イエロー・マジック” が、まさに “テクノポップ” として現実となった。

『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は、文字通り時代を動かしたと言える作品だ。テクノポップという時代を切り開いたモニュメントであるだけでなく、今聴いてもこのアルバムからは、音楽の様式を越えて心に響く純粋な音楽のエネルギーを感じることができる。この時代によって風化しないパワーと質があるからこそ、きっと次の時代にも聴く価値がある。そう思う。

カタリベ: 前田祥丈

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