有名ブランド「COACH」にそっくり?な「高知」の財布が大人気 つくった男性が不登校や発達障害の悩みを乗り越え、成功するまで

中島さんが手がけた高知柄の財布=9月7日撮影、高知市

 高知 高知 高知…。丸みを帯びた「高知」の文字が連なるデザインの財布は、有名ブランド「CΟACH(コーチ)」を思い起こさせる柄だ。もちろん「こうち」と「コーチ」をかけている。カラーはベージュ、白、黒、「文旦(黄色)」の4種類。「おもしろい」「かわいい」と人気を呼び、今や高知県を代表する商品の一つとなった。発案したのは、高知市の雑貨製造会社「ブランド高知」社長、中島匠一さん(28)。発達障害に悩み、不登校となった過去を乗り越えて「成功」をつかんだ。どのように乗り越えたのか。その道のりについて尋ねた。(共同通信=ジュレットカミラン)

 ▽「自分は宇宙人ではないか」と思っていた
 仙台市で生まれた中島さんは、父の転勤の影響で転校も多く、小学生時代を鹿児島市で過ごし、中学に進学する際に高知市に移った。「子どもの頃から他の人とは違う、変わった見方をしていた。周りからは『おかしなやつだ』と思われていたと思う」と振り返る。
 

できあがった財布をチェックする中島さん(中島さん提供)

 小学生の頃は授業に集中できず、ペンでタワーを作った。体育の時間はクラスのみんなが一斉に着替えているのに、自分だけ着替えを忘れることがたくさんあった。集団行動は苦手。「意識がみんなとは違うところに飛んでしまっている」という感覚だ。周りに合わせようと努力しても、できない。周りから奇異の目で見られ、クラスでは明らかに浮いていた。高学年の頃には「自分は宇宙人ではないか」と思うようになった。
 小学校は卒業できた。しかし、中学校では同級生に対する陰湿ないじめがあり、その矛先は中島さんにも向けられた。登校するとおなかが痛くなり、体が学校を拒絶し始めた。それでも「学校に行かなければ人生が終わる」という恐怖感があり、我慢して通い続けた。中2だった2008年9月に限界を迎え、不登校となった。

 ▽ADHDと診断されて「ほっとした」
 不登校の間、家でパソコンを見たり、ベランダで植物を育てたりして過ごしたが、心は苦しかった。「このまま孤独で死ぬのかなと思い、刑務所にいるような気分だった」
 母親に連れられて病院に行ったのは、不登校になってほどなくの頃。医師から「注意欠陥多動性障害(ADHD)」と診断された。高知県発達障害支援センターによると、ADHDは発達障害の一つで(1)物事に集中できない(2)じっとしていられない(3)衝動的に動いてしまう―といった特性がある。人によっては、時間を守れない、物事や予定を忘れっぽいという特性もある。
 中島さんは、ADHDと言われてほっとしたという。「自分の特性が分かったことで『自分対策』を考えようと思った」

ブランド高知で販売されている作品=9月7日撮影、高知市

 ▽君はアートをやったらいいよ
 しばらくして中学校の担任教師から紹介されたのが、高知市教育研究所の教育支援センター「みらい」だった。不登校の子どもの社会的自立を目的に、通所支援や訪問支援などを行うセンターだ。高知市が運営し、小学生と中学生を中心に支援する。子どもたちは学校の勉強をしたり、みんなで遊んだりして自由に過ごすことができる。
 支援センターは子どもたちの「あるがまま」を受け入れて「安心できる居場所」作りを目指している。何かを強制することはしない。勉強せずに漫画を読んだり、寝転んでいたりしていても、決して叱られない。主体的にやりたいと思えることを応援し、ゆくゆくは学校や社会に復帰できることを目指している。
 中島さんは、支援支援センターの小西豊先生からこう語りかけられた。「今までよく頑張ったね。学校に行けなくてもいいんだよ。来てくれてありがとう」。学校に行けない自分を初めて認めてくれたと感じた。
 通い始めた当初は、遊び場で1人でトランプタワーを作って過ごしたが、他の子たちと打ち解けるのに時間はかからなかった。「みんな不登校だったこともあり、自然と仲良くなった。みんなとは今も深いつながりがあり、家族のようだ」
 支援センターの文化祭「研究所まつり」では、人生を変える言葉に出合った。小西先生から祭りの看板に絵を描くように勧められた。街を背中に乗せた巨大な亀が宇宙を飛び、天使や死に神、さまざまな肌の色の人間が地球を囲むという構図。先生は「面白い」と褒め、こう続けた。「君はアートをやったらいいよ」。はっとさせられた。アートという生き方があるのか。考えたこともなかった。

中島さんがアートを目指すきっかけをくれた、「研究所まつり」で描いた絵=9月9日撮影

 思い返せば小学生の頃、校庭に転がっていた桜島の軽石を砕いて絵の具にして遊んだ。中学校の美術の授業では、みんなが画用紙に鉛筆で絵を描く中、自分だけ練り消しゴムを画用紙に貼って「絵です」とアピールした。「僕の変な発想を、表現していいんだと思うことができた」
 その後は高校に進学し、美術部に入った。集団行動にはやはり苦労したが、湧き出る発想をアート作品にした。ゴミ捨て場にあった扇風機を持ち帰り、羽根に穴を空けてシャボン玉が吹き出す機械にした。高校近くの河原では、しなる木を探して弓を作った。物を加工することに面白さを感じた。
 高2の時は石こうでミカンの型枠を作り、家にあったアルミ缶を溶かして型枠に流し込んだ“アルミ製ミカン”を作った。それをアルミ缶の上に置いて「アルミカンのうえにアル ミカン」という作品に。高知県高校美術展に出品すると「審査員特別賞」に選ばれた。「うれしかった。『研究所』の先生の言葉によって『自分の発想は面白い』という認識を持つことができた。初めて世の中から認められた」

高知県高校美術展で入賞した中島さんの作品「アルミカンのうえにアル ミカン」(中島さん提供)

 ▽夢は10回、口に出せば、かなう
 アートを学ぶため大阪芸術大に入学した。しかし大学1年生だった2013年、支援センターの小西先生ががんで亡くなった。にわかには信じられなかった。「顔を出しておけば…」と後悔の思いが込み上げる。その後、先生は亡くなる前、病室の天井を自分のフェイスブックに投稿していたと知った。「アートをやったらいい」と背中を押してくれたことへの感謝を伝えようと、天井をモチーフとした作品を作り、先生の葬式会場で展示してもらった。

小西先生への感謝を込めて作った作品=8月9日撮影

 大学では集団行動を求められることは少なくなったが、就職活動は思うように行かなかった。親からは「卒業したら働いて」と言われていた。このままでは高知県には帰れない。改めて思った。「自分にはアートしかない」
 ちょうどこの頃、アラビア文字と日本語を組み合わせた書体を描いていた。大学を卒業した後、自宅でふと同じような書体で「高知」と書いてみた。丸みのある柄を見て「これで財布を作ったら面白いな」と直感的に思った。
 さっそく財布作りに取りかかった。国内で生産を請け負ってくれる工場を探すが、見つからず最初は手作り。やがて中国で工場が見つかり、200個を生産し、インターネットなどで販売してみたが、全く売れない。苦しい中、小西先生がかけてくれた言葉を思い出した。

  「夢は10回、口に出せばかなう」
 アートで大成したいという夢を何度も口に出し、模索し続けた。
 そしてついに転機が訪れる。2018年8月、高知市の百貨店の一角を借りて財布を販売していた時のこと。お笑いコンビ「NΟN STYLE」の石田明さん(42)がテレビの収録に訪れた。「財布を渡そう」と決心し、収録の合間に声をかけて渡した。すると後日、石田さんが自身のツイッターに財布の写真を投稿。すると爆発的に注文が寄せられた。1日に約2千件の注文が入ることも。その年の秋、「ブランド高知」を立ち上げて社長となった。

最初に手作りした「高知の財布」=9月7日撮影

 小西先生と支援センターへの感謝の思いは尽きない。
「なんでも肯定してくれた。『できない』という弱さを、強みに変えてもらえた。考え方を変えるきっかけをくれた。かけがえのない存在」

 ▽自分を輝かせる世界はいくらでもある
 ブランド高知では、高知に関係する商品を手がけている。室戸市の海洋深層水を使った化粧水、香美市のシカの革を使った名刺入れ、いの町の和紙を使ったカード入れ…。「支援センターのような場所を提供してくれた高知が大好き。恩返しをしたい。高知を盛り上げられるような会社にして多くの人に高知のことを好きになってもらいたい」

高知柄の財布を持つ中島さん=9月7日

 母に支えられながらブランド高知で作品を作り続けている。そして、同じようにADHDに悩み苦しむ人たちに伝えたいことがある。「決められたレールから外れても人生は終わりではない。実はチャンスかもしれない。自分を輝かせる世界はいくらでもある」

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